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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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徒競走を走る小学生はカメラを自覚している
親から聞いたところによれば、子供のころ、街中で測量士が使っている三脚をカメラと勘違いして、その前を緊張して歩いていたらしい。子供だってカメラ的な何かを向けるとすっかり意識するものなのだ。運動会の徒競走のスタート直前、「親来てる?」「来てる」「どこ?」「最後のカーブのとこ」「カメラは?」「撮ってる」「マジかよ?」「マジだよ」という会話をしたのは小学5年か6年だったかと思う。誰かに撮られることについて、子供なりに自覚しているのである。ませた子役タレントが大人びた対応をみせると、「まったくそんな年なのにどうして」と周囲は驚くが、カメラが向けられることに、少々強ばりながらも冷静に察知する対応は、子供だろうが、いたって自然な振る舞いなのである。
先方が望んでいるものはこういうものだろうから、それを実現できるように誠心誠意頑張ろうとする……これはあらゆるビジネスマンが携えておくべきメソッドだが、徒競走に出場する小学生がそんな意識を含ませて走っていると知ったら、親御さんはショックのあまり手元のカメラを震わせてしまうかもしれないが、今のカメラは手ぶれ補正機能があるので安心して欲しい。適材適所でそれなりの所作を投じることを、私たちはいつの間にか取得している。しかもとっても早いうちに。
芸能人ではない著名人のドキュメンタリー
ビデオカメラのCMの過半数は子供の徒競走の場面だが、それは、自治会の将棋大会で次の手に悩む自治会長を映していても致し方ないからである。その選択肢は、真っ当である。これはこの連載に通底するテーマでもあるが、テレビの「よくあるシーン」を散々浴びせられると、同じシチュエーションに置かれた時に、そのシーンを反復してしまうのが人間というもの。そうはいっても、「僕は死にましぇーん」と叫ぶためにトラックの前に立ちはだかっても実際には死んでしまうことを私たちは知っているから、話半分で理解したり、話4分の1や話8分の1で理解したりする。つまり、調整する。
芸能人ではない著名人は、なにかとドキュメンタリー番組の被写体として重宝されるが、この人たちは、「テレビに出るのは初めてではないし、かといって、ずっと追われることに慣れているわけでもない」という状態にあるから、カメラに追われるなかで距離感を調整していく感じが漂ってきて面白い。最初と最後で、どこまで取材陣に心を許しているかが異なるから、その度合いを見せつけるのが、ドキュメンタリーの一つの柱になってくる。
カメラの暴力性を際立たせる方法
「ここから先は撮らないでください!」「カメラ止めてもらえますか!」という場面を、少なくとも年に数回は見せつけられているのではないか。情熱的な大陸を好む貴方ならば、月に1度はそんな場面に遭遇しているだろう。重要な会議に入ろうとする会議室の前で、作詞するもなかなか言葉が降りてこないスタジオで、この秋を彩る一品作りに試行錯誤する厨房で、密着していたカメラが撮影を咎められるのである。このところ、国民的なアイドルグループから引退すると、たちまち平凡な女優になる、という方程式が強化されているようだが、国民的なアイドルグループの頂点にそびえ立っていた人を追ったドキュメンタリーでは、カメラを向けられると顔を隠す、という目新しい反応を見せた。それは、撮影を咎める以上の嫌悪である。カメラを止めてもらえばその後の自分は映らないわけだが、むしろ彼女は、どうだこの嫌悪感、視聴者に感じてもらおうじゃないかと仕向けたわけである。
「カメラ止めて下さい」と申し出るシーンは必ず使われることになり、そんなことを申し出るなんて生意気、という一定層の声を呼び寄せることにもなる。「顔を手で覆い隠す」というニュースタイルは、それ以上の批判を膨らませたかもしれないが、カメラの暴力性を際立たせることにも成功しており、トップのスターというものはこうしてアクロバティックな方法で警鐘を鳴らすものなのだと感心した。あちこちで見聞きするようになった「私のことは嫌いになっても、○○のことは嫌いにならないでください」は、彼女によって提起された名台詞だが、物事を提起する際に自分の身を汚しても構わないとする姿勢は勇ましい。嫌われないようにするという前提を自ら踏み外すのは、なかなかのたくましさだった。
「カメラ止めて下さい」の有無が意味するところ
誰かに密着取材をすると、その被写体は、撮影初日に必ず「私なんかを追いかけても、なんにも面白いことは起きませんよー」とカメラに向けてポップな笑顔を向ける。その笑顔は本編の冒頭で流れるが、こちらは事前に、告知映像などで「カメラ止めて」に端を発する撮影陣とのトラブルが起きたことを知らされている。ホラー映画のイントロが穏やかなのと同様に、そんなこと言ってけど、あとで大変なことが起きるんだよね、とこちらは優位に立つ。しかし、冷静に考えてみれば、その優位性はこちらが作り上げたものではない。編集する側が、まずは牧歌的な映像を差し込むことで、こちらに「いいや、ホントはこのままいかないって知ってるんだぞ」と優位性を投与しているだけだ。いや、その優位性を投与しているのは、編集する側ではなく、被写体側かもしれない。こんな感じのものを入れこんでおけば使えるでしょ、という策略。
「カメラ止めて下さい」にしてもその延長である。つまり、被写体が、ドキュメンタリーとはどのようなものかを察知し、既存の映像を頭に浮かべながらドキュメントの転換点を義理堅く提供する。喜怒哀楽の針を振らなければドキュメントにはなりにくい。その針を普段は動かさない方向にも動かさなければならないとなったときに、自分から動かすか、外から動かしてもらうかは、その本人の特性を定める行為にもなる。自分から揺らしに行くか、揺らされるのを待つか。その一つの争点が「カメラ止めて下さい」の有無である。
雑踏に消えていくエンディング
人物ドキュメンタリーの最後は、カメラに背を向けてどこかへ歩いていくシーンが多い。その後ろ姿を映しながら、「○○の挑戦は今、始まったばかりだ」と宣言を代弁したり、「○○はそう言い残し、雑踏に消えていった」と何らかを漂わせたり、「○○は、その事を私たちに伝えたかったのかもしれない」と雑に推察したりする。冒頭の「私なんか撮っても」と、中盤の「カメラ止めてください」と、エンディングの「雑踏へ消えていくシーン」は3点セットである。
象徴的な物事を興すというのは、そう簡単なことではない。今、パソコンの前で腕を組んでこの数年を振り返ってみても、その場で声を荒げるほどの予想だにしなかった唐突なトラブルに見舞われたケースを思い起こせない。むろん、トラブルが生じ、それを論議しにいった場面はいくつも思い当たるが、それは対応すべき所作がおおよそ想定されていた。「カメラ止めて下さい」が百発百中ならぬ百発八五中くらいで登場するのは、カメラが人に向かうことのイレギュラーっぷりを教えてくれるわけだが、被写体側がその「八五中」に収まってやろうと体を仕向けている結果でもあるのだろう。
明日から貴方にテレビカメラが密着すると想定する。4ヶ月後に30分番組で放送すると言う。貴方はいくつものプレッシャーを感じるだろうが、その最たるものは、「なにか出来事を起こせるだろうか」というもの。そんなプレッシャーにかられた貴方は、ついつい「あっ、ここはちょっと撮らないでください」という場面を作ってしまう。ドキュメンタリーで頻出する「カメラ止めて」はおおよそ作為的なのではないか。「カメラ止めて」には、自発型、用意周到型、協力型、いろいろな型がある。これを気にし始めると、テレビ放映されるおおよその人物ドキュメンタリーに没頭できなくなるのでお勧めしないのだが、お裾分けしてみる。
<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。
イラスト: 川崎タカオ