メダルラッシュに沸く東京五輪。それをネガティヴな要素1つなく、大いに盛り上げる形で報じるテレビ番組に向け、「手のひら返しかよ」と批判する声が上がっている。無理もない。直前まで開催を疑問視する姿勢であったのだから、そう思うほうが自然だ。しかし、筆者はそんな状況をこう捉えている――これこそがテレビ的なものなのだと。
まだ終わっていない真っ只中の現在でも、ちょっと振り返ればすったもんだばかりしかなかった東京五輪。特に記憶に新しいのは、開会式の楽曲を担当していた小山田圭吾氏の辞任、そして開閉会式のショーディレクターを担当していた元お笑いコンビ「ラーメンズ」のメンバーで、劇作家の小林賢太郎氏の解任だろう。それぞれの理由についてここで詳述する必要はないが、皆さんはどう思われただろうか。小山田氏や小林氏に憤りや不快な思いを抱いた方が多いと思う一方で、こう考えて気になった人もいるのではないか。
「東京五輪は本当に開幕できるのか」
実は大きなイベントものに、このような不安はつきものだ。振り返れば2003年、日本テレビが大みそかに放送した『INOKI BOM-BA-YE2003』では、当初予定されていたメジャーな格闘家の欠場が直前になって相次いだ。"氷の皇帝"こと、エメリヤーエンコ・ヒョードル氏も本当に出場するのか、直前の直前まで関係者が気を揉んだという。もっとさかのぼれば、アントニオ猪木vsモハメド・アリの世紀の一戦もそれに近いものがある。アリ氏のギャラが折り合わず、調印式当日までゴタゴタは続いたとされている。例えが古すぎて申し訳ないのだが、アリ氏は後にアトランタ五輪の聖火の点火者も務めた。それくらいすごいボクサーだったのだと、若い人にはとりあえず分かってほしい。
テレビには元より信条なんてあるのか?
話は戻って、東京五輪開会式。「音楽はどうなるのか?」、「演出にほころびは見えるのか?」という見方でその瞬間に臨んだ人も多かったことだろう。ホームページで公開されているビデオリサーチの調べによると、開会式の平均視聴率は関東地区で個人視聴率は40.0%、世帯視聴率で56.4%という驚異的な数字をたたき出している。全国では7,061万人にリーチしたと推定されるという。
開会式直前の辞任・解任劇もその数字の追い風となったのは間違いない。メディアの話題の中心にあり続けたという事実。これは否定できないことだ。そんな開会式から国民の興味関心の的が日本選手の活躍に移るのは当然のことで、それを報じないのはテレビとしてはあり得ない。直前まで中止や延期を訴えていた番組でさえも至極当然のこと。「信条はないのか?」と言われようが、関心事を伝えないという選択肢をテレビが選ぶはずはない。何故ならそれがテレビメディアである所以だからだ。
筆者はコラム連載開始当初からこう言ってきたが、テレビとは"あなた自身"であり、"現在"にしかすぎないのだ。
テレビには元より信条なんてあるのだろうか。放送法4条を読めば分かる。政治的に公平であることが求められ、報道は事実を曲げないで行うことが定められている。世論調査の結果で五輪反対が多ければ、それをそのままストレートに伝える。4条では、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにするともあるので、そこに賛成側の代表として菅首相の言葉もつなぎ、街の期待する声も伝えただろう。番組サイドは、何も火のないところに煙を立てて、声高に反対を叫んだわけではないのである。ただ同時に言えることは、テレビマンは、求められているものは何かを常に考えている。その指標の1つが、これまで何度も言ってきているように視聴率に他ならない。結果としてテレビに映し出されるのは、やはり"あなた自身"であり、"現在"にしかすぎないのだ。
さて、こうも五輪が盛り上がってくると、駆け込み的に色々な発表ものを五輪の喧騒の裏に紛れ込ませるのも、芸能界のまた自然な流れ。芸能人カップルの結婚や離婚のニュースが8月8日の閉会式前日くらいまで何度か報じられるのではないだろうか。この最中でも大きく扱われるのなら本物の証。スルーされるなら、世間の関心はその程度のものとブーメラン的に本人に跳ね返ってくるだろう。
筆者は五輪そのものよりも、そういったサイドの思惑に大変興味がある。テレビ的なものを知ったうえで、逆手に取ったやり方。そりゃあ、五輪の裏だったらレギュラーで人気の番組だって、総集編的な内容の2、3時間特番を放送せざるを得ないわと、テレビマンの声なき声をここに書き留めておく。しようがないよ、だって"現在"だもの。