鉄道線路のレールの間隔を「軌間」という。JR在来線の軌間は1,067mm、新幹線の軌間は1,435mmだ。これは鉄道雑学のキホンでもある。山形新幹線や秋田新幹線を運行するときは、東北新幹線と直通運転するために、奥羽本線や田沢湖線の軌間を1,067mmから1,435mmに拡大した。

このような軌間の変更を「改軌」というが、この「改軌」を2回も実施した路線がある。レールの間隔の変更は線路の工事だけではなく、そこを通る車両もすべて改造しなくてはいけない。車両とホームの間隔など、鉄道施設全体に及ぶ大改造だ。いったいどの鉄道路線が、何のために2度も改軌したのだろうか。

乗り入れ相手に合わせた決断だった

改軌という大事業を2度も実施した路線。それは現在の京浜急行本線である。京浜急行電鉄の前身の大師電気鉄道は、1899(明治32)年に六郷橋と川崎大師を結ぶ参詣鉄道として発足した。このときの軌間は1,435mm。現在の新幹線も採用する1,435mmは鉄道発祥のヨーロッパの標準サイズで「標準軌」とも呼ばれている。現在の京急電鉄も標準軌である。つまり、京急本線はいったん異なる軌間に変更し、元に戻したことになる。

合併・乗り入れで2度も軌間を変更した京急

大師電気鉄道は当初から都心と横浜を結ぶ構想を持っていた。そこでまず品川方向の大森へ延伸し、次に川崎方向へ線路を延ばした。会社名も京浜電気鉄道に変更した。品川で東京市電に接続することになり、それなら直通運転しようという計画が持ち上がった。しかし東京市電は馬車鉄道由来の軌間、1,372mmだった。そこで、開業から5年後、1904(明治37年)に全線を1,435mmから1,372mmへ改軌した。大事業といっても、まだ大森 - 川崎間の約7kmにすぎなかった。

京浜電鉄は横浜まで開通し、高輪 - 横浜間を全通させた。ここで第2の転機が訪れる。三浦半島に路線網を持つ湘南電鉄の子会社化、その後の合併である。湘南電鉄は標準軌で建設された長大な路線を持っていた。そこで、湘南電鉄と相互乗り入れするために、京浜電鉄は2度目の改軌を決断する。こうして現在の京浜急行電鉄の原型ができあがった。1933年(昭和8)年のことだった。

2度目の改軌によって、京浜電気鉄道は東京市電の乗り入れができなくなってしまった。しかし、第二次大戦後の高度成長時代に市電は順次廃止され、1968(昭和43)年に都営地下鉄浅草線が開業する。このときは都営地下鉄側が京浜急行の軌間に合わせた。都営浅草線は京成電鉄とも相互乗り入れをする計画で、当時の京成電鉄は1,372mmを採用していた。京成も京急も長大な路線網を築いていたが、東京都、京急、京成の協議の結果、車両数の少ない京成側が京急の軌間に合わせて改軌したという。

もし、湘南電鉄が当初から1,372mmで建設されていれば、京急も京成も改軌しなくて済んだ。もし、京急が京成に合わせることになったら、京急は3度も改軌し、ふたつの軌間を2度ずつ経験するという珍しい路線になっていた。これは鉄道ファンにとっては楽しい「もしも」の話である。

1,435mmの幅の広い線路となったことで、現在の京急電鉄は高速な電車運行を実現した。大手私鉄最速の時速120km運転を実現し、国鉄/JRの東海道本線と対抗できるようになったとも言える。これは京成にとっても同じこと。1,435mmへ改軌した結果、この夏に運行開始する新スカイライナーは時速160kmを実現し、大手私鉄最速の記録を更新できるというわけだ。

京急本線の2度の改軌は、「野心あふれる鉄道人たちが、東京の路線網を構築した時代」の逸話のひとつとして、鉄道ファンに語り継がれている。