10月3日に大阪環状線から引退した通勤形電車103系は、国鉄時代の1963年から1984年までに3,447両も製造された。東京・大阪など大都市圏で活躍し、高度成長期の通勤電車の象徴ともいえる。混雑路線の輸送力増強の使命を全うし、第一線を退くと、ローカル線に転用された。大半が廃車されたけれど、現在も奈良線、阪和線、播但線などで活躍中。その中でも数奇な運命をたどった103系がある。なんと8両が北海道に渡っていた。
その"証拠"となる記事を見つけた。「鉄道ファン」(交友社)1998年11月号、120ページの左上。小さな写真とともに「103系が北海道へ」との記事がある。写真は1998年8月20日に江差線(現・道南いさりび鉄道)釜谷~渡島当別間で撮影されたという。
そこには電気機関車ED79形(青・白の塗装)に牽引され、8両つながった103系の姿が写されている。機関車側からスカイブルー2両、エメラルドグリーン1両、スカイブルー2両、エメラルドグリーン2両、スカイブルー1両。機関車側から2両目と3両目は窓が埋められたような姿に見える。いかにも怪しい編成で、沿線に鉄道ファンらが撮影し、趣味誌に投稿したくなる気持ちもわかる。
103系は直流電化区間専用の電車だ。直流電化区間と交流電化区間を比べると、直流電化区間は電力設備に費用がかかり、電車や電気機関車は安くできる。だから大量に電車を走らせる大都市の路線に向いているといわれる。交流電化区間は電力設備の費用が少ない反面、電車や電気機関車の製造費用は高めとなる。
鉄道路線の電化は、列車の運行本数に応じて総費用の安い方式を採用した。したがって、国鉄時代の直流電化区間は大都市圏の路線や東海道・山陽本線などの幹線に採用された。運行本数の少ない地方路線は交流電化区間となった区間が多い。北海道の電化区間はすべて交流電化されており、JR北海道になったいまでも変わらない。
つまり、103系を北海道に運んでも、自力走行はできない。交流電車に改造すれば走行できるけれども、厳冬期の北海道で、扉の数が多く、デッキがなく、窓ガラスが二重化されていない車両は使いにくい。走行装置も車体も改造するというなら、わざわざ103系を使わなくても、初めから交流電化区間を走行できる電車を製造したほうがいい。
ではなぜ、103系が北海道に渡ったのだろうか。「103系 北海道」のキーワードで検索すると、衝突実験に使われたという情報が見つかった。その証拠となるかもしれない文献が鉄道総合研究所のサイト内で公開されている。「Crashworthiness Investigation of Railway Carriages」という英語の論文で、和訳すると「鉄道車両の耐衝撃性調査」となる。この論文は「Quarterly Report of RTRI」という、鉄道総合研究所が海外向けに研究成果を発表する論文誌で、2003年に刊行された44号に掲載された。
大前提として、日本の鉄道車両は、ATSなどによって「非常時は停止する」という安全策を前提につくられていた。しかし、実際にはさまざまな形で車両に衝撃が加わる事故が起きている。論文では1991年に起きた信楽高原鐵道の列車衝突事故などにも触れていた。こうした鉄道車両の事故を受けて、衝突時に車両にかかる状況を調査し、今後の鉄道の安全策に寄与する目的で実験と論文作成が行われたようだ。
論文には103系を示す「Series 103」などの文字は見当たらない。しかし添えられた図面は103系によく似ている。調査は車体妻面に対して「連結器部分1点に衝撃」「妻面全体に衝撃」「妻面下部に衝撃」の3種類が行われたという。駅の車止めに衝突した場合、車両同士が衝突した場合、踏切などで自動車と衝突した場合を想定しているようだ。また、車体の構造別の実験も行われた。車両中央のドアのある大開口部、車端部の運転台部、車端部のドアと窓の部分だ。
このことから、北海道に渡った103系は、旅客営業のためではなく、衝突試験のために廃車を回送したと考えられる。車両の回送は1998年。論文の発表は2003年。まだ記憶に新しい福知山線脱線事故は、この論文が発表されてから2年後の2005年に起きた。事故の後に設計された車両は、ATSが作動しなかった場合などを想定し、車体の強度を上げるという考え方が強まったと聞く。この論文もきっと役に立ったことだろう。北海道に渡った103系8両は、鉄道の安全のため、体(車体)を張って貢献してくれたのかもしれない。