東急電鉄は池上線の開通90周年を記念して、10月9日(トーキューの日)に「池上線フリー乗車デー」を開催する。さらに池上線「生活名所」ツアーとして、「鉄ちゃん集まれ ディープ池上線潜入」も行われる。雪が谷検車区の見学、新幹線の真上にまたがる御嶽山駅などを巡る行程で、鉄道ファンも納得の内容となる。
ところで、このツアーに含まれない、もっとディープな話がある。池上線が池上電気鉄道として運行していた時代、現在の雪が谷大塚駅から支線が分岐していた。この支線は中央本線の国分寺駅まで到達させる構想だった。しかし、実際に開業した距離は新奥沢駅までの約1.4km。「新奥沢線」と呼ばれていた。
昭和4年の地図。雪が谷駅から分岐し、北西に向かう線路がある(国土地理院地図を加工) |
東急池上線は、前身の池上電気鉄道によって1922(大正11)年10月に蒲田~池上間が開業した。池上本門寺の参詣鉄道だった。その翌年、1923年に池上~雪ヶ谷間、1927年に雪ヶ谷~桐ヶ谷間を延伸開業し、1928(昭和3)年に五反田駅まで通じた。つまり、全線の鉄道開通は1928年であり、2017年は開通89周年になる。ただし、1927年に鉄道路線に先行して連絡バスを五反田駅へ走らせている。開通90周年はバス連絡時代の1年間を含んでいる。
新奥沢線は1928(昭和3)年に雪ヶ谷~新奥沢間が開業した。この路線計画の終点は国分寺駅。直線距離で約22kmだった。池上線の路線距離は約11km。新奥沢線の計画は2倍の路線距離となるから、全線開通すると池上線の支線ではなく、池上線が支線になっていたかもしれない。実際には約1.4kmだったから、池上線の支線のような存在だった。しかも、開業からわずか8年で廃止されてしまった。
新奥沢線がなぜ誕生し、廃止されたか。その背景には池上電気鉄道のライバル、目黒蒲田電鉄の存在がある。目黒蒲田電鉄は目黒~蒲田間を結ぶ路線で、現在は東急目黒線目黒~多摩川間と多摩川線(多摩川~蒲田間)に別れている。池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の路線が並行して建設されたことから、池上線は路線の変更を余儀なくされた。
池上電気鉄道は当初、目黒~池上~大森間で免許を取得した。大森駅は東海道本線の駅で、京急電鉄の前身である京浜電気鉄道が接続していた。池上電気鉄道が予定通り大森に達していれば、池上本門寺と川崎大師を鉄道で行き来できる。参詣が鉄道需要を支えていた当時、このルートは魅力的だっただろう。
ところが、大森付近の用地買収が難航し、建設が進まない。そこで池上電気鉄道は代替案として、支線として池上~蒲田間を建設して先行開業する。この路線を目黒方面へ向けて延伸していった。一方、目黒蒲田電鉄は目黒~蒲田間を先に全通させてしまう。そこで池上電気鉄道は建設の終点を目黒駅から五反田駅へ移し、五反田~蒲田間を開業した。
池上電気鉄道は、目黒蒲田電鉄の並行路線だけでは勝ち目がないと察し、雪ヶ谷駅から国分寺駅に至る鉄道免許を得て、先行して新奥沢線を開業した。その他、計画として五反田駅から白金・品川方面の路線がある。また、当初計画の大森駅延伸も諦めてはいなかった。しかし、実際に開業できた路線は新奥沢線だけだった。
この新奥沢線の開業が、池上電気鉄道の社名を消すきっかけになってしまう。新奥沢駅は当初、奥沢駅とするつもりだった。しかし、目黒蒲田電鉄の奥沢駅があり、距離も離れているため、新奥沢駅とした。目黒蒲田電鉄にとって奥沢は縄張りのひとつ。そこで、目黒蒲田電鉄の五島慶太は池上電気鉄道を買収し、目蒲線を脅かす新奥沢線を廃止し、今日に至っている。その後、目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄を買収し、戦時合併して東急電鉄となった。合併はさらに進み、大東急時代を築いた。
東急電鉄にとって、目蒲線は本流であり、池上線は敵対的買収相手だった。そのためか、戦後の東急時代になっても池上線は冷遇されてきたような印象がある。新型車両は東横線や田園都市線から導入され、その"お古"が目蒲線に入り、さらに池上線に流れ着く。だから池上線は東急電鉄の中古車の宝庫だった。流れが変わったきっかけは、1993年に投入された新型車両1000系。池上電気鉄道時代以来、63年ぶりの新車として話題になった。
2007年には池上線・東急多摩川線に新型車両7000系も投入された。それから10年、東急電鉄は池上線の魅力を引き出すため、「池上線フリー乗車デー」、池上線「生活名所」ツアーなどの施策を繰り出した。池上線の冷遇時代は終わったと見て良さそうだ。
新奥沢線の遺構は少なく、新奥沢駅跡に石碑がある程度。しかし、線路をつぶして作った道路には、まだ発見されていない遺構があるかもしれない。10月9日は、どのツアーに含まれない、新奥沢線の遺構を探すディープな散策もおすすめだ。