京王電鉄の井の頭線は渋谷~吉祥寺間を結ぶ12.7kmの複線電化路線だ。途中駅に下北沢駅があり、若い人たちに人気のエリアを通る路線としても知られている。他にも商店街がにぎわう駅、閑静な住宅街の駅などがあり、人気のある路線といえる。ステンレス製車体の電車の前面は7色のマスクで、おしゃれな街に似合っている。
井の頭線は京王電鉄の路線としては異端ともいえる。電車の形状も違うので、京王線系統とは異なる文化を持っていそうだ。京王線系統の軌間は馬車鉄道時代を継承した1,372mmだけど、井の頭線はJR在来線や小田急線、東急線と同じ1,067mmとなっている。
井の頭線は京王電鉄の路線でありながら、京王電鉄らしくない部分もある。その理由は、もともと井の頭線が小田急電鉄の路線だったから。そういわれてみると、下北沢駅は小田急小田原線と乗換え可能だけど、乗換え改札口がない。小田急小田原線と京王井の頭線が同じ会社の路線だったとすれば、これは納得できる。
井の頭線はかつて小田急電鉄の路線だった。では一体なぜ、井の頭線は京王電鉄に"移籍"したのだろう。その理由は、戦時合併による「大東急時代」を経て、戦後になって各社が独立したことにある。小田急電鉄が大東急に合併され、また独立したとき、井の頭線は京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の路線になった。
もともと、井の頭線は独立した会社の路線だった。当時の会社名は帝都電鉄という。帝都電鉄は1933(昭和8)年8月に渋谷~井の頭公園間が開業。その8カ月後、1934(昭和9)年4月に吉祥寺駅まで全線開業した。帝都電鉄は独立した会社といっても、親会社は鬼怒川水力電気という電力会社だった。そして鬼怒川水力電気にはもうひとつ、鉄道会社の子会社があった。それが小田原急行鉄道だった。
1940(昭和15)年、小田原急行鉄道は帝都電鉄を合併した。渋谷~吉祥寺間は小田原急行鉄道帝都線となった。消える会社名を路線名に残すことにしたわけだ。1941年に鬼怒川水力電気と小田原急行鉄道は合併し、小田急電鉄となる。その直後、小田急電鉄社長の利光鶴松が高齢などを理由に勇退。18歳年下で、東京横浜電鉄(後の東急電鉄)社長の五島慶太に小田急電鉄を託した。五島は当時、関西急行鉄道(後の近畿日本鉄道)や京浜電気鉄道(後の京急電鉄)の要職でもあった。
このような経緯と、戦時政策による経営統合を進めるため、1942年、五島慶太が経営する小田急電鉄、東京横浜電鉄、京浜電気鉄道が統合し、東京急行電鉄となった。いわゆる「大東急時代」だ。このとき、帝都線は井の頭線に路線名が改められた。1944年、陸上交通事業調整法によって、東京急行電鉄は京王電気軌道を吸収合併。他の鉄道会社も次々に合併、事業委託するなどして、大東急はますます大きくなった。
戦後、五島慶太は公職追放となり、大東急の事業は停滞する。そこで、旧小田急電鉄陣営から大東急の事業分割・別会社化が提案された。五島慶太は非公式な立場ながら承諾する。こうして小田急電鉄、京浜急行電鉄などが分離独立した。このとき、帝都線は旧京王電気軌道に組み込まれ、京王帝都電鉄となった。「帝都」は井の頭線の旧路線名だった帝都線、さらにその前身の帝都電鉄に由来する。
井の頭線が京王帝都電鉄に移管された理由は、京王帝都電鉄の経営安定のためだといわれている。京王帝都電鉄は大東急になる前の電力配電事業やバス会社など有力な子会社を失っていた。井の頭線は京王帝都電鉄の事業の柱として期待された。
一方、小田急電鉄は井の頭線を失う代わりに、箱根登山鉄道と東急系列の神奈川中央交通をグループに加えた。また、江ノ島電鉄の株の一部を東急電鉄から譲り受けている。
井の頭線の軌間は現在も小田急と同じ。下北沢駅はまるで小田急の駅と一体化されているかのようだ。これらは「かつて小田急電鉄だったから」という理由でつじつまが合う。なお、小田急電鉄は連続立体交差化・複々線化工事によって、下北沢駅のホームを地下に移したものの、コンコースや改札口は分離しなかった。したがって現在も、小田急小田原線と京王井の頭線は乗換え改札口を通ることなく行き来できる。