著名な文学作品には、映像化されて親しまれている小説がいくつかある。「原作小説は学生時代にに読んでいたはず」いや「あまりにも有名で筋書は知っているけれども、もしかしたら読んでいないかもしれない」という作品もあるだろう。夏目漱石の小説『坊っちゃん』も、そんな物語のひとつかもしれない。

簡単にあらすじを紹介しよう。主人公「おれ」は父と母、兄、お手伝いの清(きよ)と暮らしていた。「おれ」の味方は清だった。母が病気で亡くなり、父も急死すると、兄は転勤をきっかけに家を売り払った。「おれ」は兄から金を受け取り、物理学校に通い卒業する。校長は「おれ」に中学の数学教師の職を紹介してくれた。

伊予鉄道「坊っちゃん列車」。小説『坊っちゃん』に登場する「マッチ箱のような汽車」を再現した

ここからが映像化されて多くの人々の記憶に残る場面だ。「おれ」はマッチ箱のような汽車に乗って任地に着く。さっそく教え子たちにからかわれ、騒動を起こすなど破天荒な教師ぶり。校長や教頭「赤シャツ」に反抗しながらも、「山嵐」という親友と出会う。「うらなり」と「マドンナ」の恋物語があり、「赤シャツ」の不祥事が発覚。「おれ」と「山嵐」は義憤に駆られ、「赤シャツ」を鉄拳制裁する。

その件で「おれ」は教師を辞職し、東京に帰る。その後の「おれ」はどうなったか。最後の段落に簡単に書いてある。

その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。

街鉄の技手。街鉄とは「東京市街鉄道」である。路面電車を運行する会社だ。後に同業他社と合併して「東京鉄道」となり、東京市に買収されて東京市電になった。つまり「街鉄」とは、東京都電の前身となる3つの会社のひとつだ。『坊っちゃん』は路面電車の会社に入り、技術者として働く結末になっていた。

東京市街鉄道の路線は1903(明治36)年9月に開業し、最初の開業区間は数寄屋橋~神田橋間だった。それから次々と延伸開業し、日比谷公園、茅場町、半蔵門、三田、九段下、四谷見附、赤坂見附、青山、渋谷、新宿、浅草橋、両国、門前仲町、本郷、上野広小路、飯田橋、早稲田など、広範囲に路線網を築いていく。東京市街鉄道の「街鉄」に対し、同業だった東京電車鉄道は「電鉄」と呼ばれ、東京電気鉄道は「外濠線」と呼ばれた。

小池滋氏の著書『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』(新潮文庫)

この3社の合併は1906(明治39)年9月。新会社名は東京鉄道。「東鉄」と呼ばれた。街鉄という名が存在した時期は1903年9月から1906年9月までのわずか3年間だった。これで『坊っちゃん』という小説の舞台が特定できる。

ところで、なぜ教師だった「おれ」は東京で教師にならず、技術者に転職したのか。1916(大正5)年に没した夏目漱石がその部分について語った資料は見つかっていない。しかし、この件について詳しい考察を発表した人がいる。英文学者で『英国鉄道物語』などの著書もある小池滋氏だ。

小池氏の著書『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』によると、教師にならなかった理由は、上司を殴って辞めた者を雇う学校はなかっただろうから。夏目漱石は電車好きというわけではなく、むしろ路面電車を嫌っていた。しかし当時の最先端の技術として関心を持っていたはず、と考察している。夏目漱石は『坊っちゃん』の主人公「おれ」に、当時の最先端の職場を用意したようだ。なお、技手は「ぎて」と読み、運転士や修理工よりは上の役職で、現場の管理や指導をする立場だったとのこと。

大学出の学士なら幹部の技師になれただろうが、専門学校卒なので中間の技手で我慢せねばならなかったと思われる。(『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』より引用)

なるほど、さらっと読み進んでしまった職位にも、きちんと裏打ちされた理由があった。

夏目漱石は1895~1896年に愛媛県尋常中学校(現 : 松山東高校)の英語教師として赴任しており、小説『坊っちゃん』は当時の経験を元に書かれたという。

『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』は、夏目漱石と「おれ」を重ねつつ、当時の世相や漱石の人となりから、「おれ」について深く考察している。小説の最後の段落の「街鉄」というキーワードから、これだけ広く深く、楽しく語られるとは感服するばかり。表題の他にも、田山花袋、永井荷風、佐藤春夫、芥川龍之介、宮沢賢治、山本有三の著作と鉄道の関連についても考察している。文学に登場する鉄道について、もっと知りたくなった人におすすめの1冊だ。