JR山手線が日本鉄道品川線として開業したとき、区間は品川~赤羽間で、駅は品川・渋谷・新宿・板橋・赤羽の5つだった。後に板橋駅と赤羽駅は赤羽線の駅となって、現在の山手線は品川~田端間で17駅。環状運行系統としての山手線は29駅となっている。東京の発展とともに、駅は増える一方だった。しかし、じつは廃止された旅客駅があった。営業期間はたった2日。場所は原宿駅のそばだった。
その駅は、現在の代々木公園の中。原宿駅の南側から線路を分岐し、0.4マイルの距離にあった。当時は鉄道の距離をマイルで表記していた。メートル法では約640mだ。駅の名前は「葬場殿仮停車場」という。物々しい名前だけど、葬場はもちろん葬儀場を示す。明治天皇の后、昭憲(しょうけん)皇太后の葬儀のためにつくられた駅で、開設は1914(大正3)年5月24日。廃止は5月26日。鉄道の廃止日は登録抹消日だから、稼働日はその前日になる。つまり、葬場殿仮停車場は1914年5月24・25日の2日間だけ稼働した駅となる。
昭憲皇太后は1849(嘉永2)年に公卿の一条家に生まれた。1867年に明治天皇の妻となり、1868(明治元)年に皇后になられた。1914年4月9日に沼津の御用邸で狭心症の発作を起こし、4月11日に崩御された。5月24・25日に大日本帝国陸軍代々木練兵場で大喪儀(たいそうぎ)が行われた。葬場殿仮停車場は霊柩を奉った葬場殿の奥に作られていた。「国立国会図書館デジタルコレクション」がインターネット上で公開している資料「昭憲皇太后御葬大奉送始末」によると、線路は3本。ホームは南側と北側にあり、南側ホームの中央と葬場殿が通路でつながっている。
当時の新聞記事などによると、霊柩列車は7両編成で、霊柩車が中央にあり、前後に3両を連結した。霊柩は鉄道職員によって霊柩車の台座の上に安置された。東を枕としたとあるので、進行方向に枕があった。霊柩列車は5月25日の午前2時に発車。第1供奉列車が2時15分、第2供奉列車が2時45分に発車した。供奉とは参列者を意味する。皇族や貴族、軍人、大臣などが乗車した。大勲位総代東郷元帥、大臣総代大浦農商務大臣ほか、陸軍大将、後藤新平、近衛文麿などの名が残っている。
霊柩列車の行先は京都だった。2時4分に原宿駅に到着し、機関車を交換して同11分に発車した。同様に第1供奉列車が2時20分、第2供奉列車が2時50分に発車した。列車の方向が変わるけれども数分で済んでいる。あらかじめ次の機関車が待機していたと思われる。
霊柩列車は山手線の上り線を走り、2時34分に品川駅に到着。汽笛を鳴らさず静かに停車したという。ここで列⾞は⼭⼿線下り、東海道線上り、東海道線下りへと転線。所要時間は8分だった。ここから沼津まで担当する機関車が連結され、汽笛一声を発して2時44分に発車した。
霊柩列車は東海道線を走り続け、京都駅から奈良線に入って桃山駅に到着した。付近には明治天皇の伏見桃山陵があり、昭憲皇太后のために隣地に伏見桃山東陵が整えられた。霊柩列車の到着は17時30分。第1供奉列車はその30分前に到着している。霊柩を迎えるために途中で追い越したと思われる。
また、第2供奉列車の到着の記述が見当たらない。第1供奉列車と第2供奉列車は途中で連結したかもしれない。供奉は前述の要人のほか、鉄道職員、侍従、楽団員も参列した。第1供奉列車は要人が乗り、第2供奉列車は楽団など職務関係者だったと思われる。準備のために先行し、葬送曲で霊柩を迎えたと考えれば納得だ。
大喪儀(たいそうぎ)が行われた代々木練兵場は第二次大戦の終戦後、米軍に接収され、後に1964年の東京オリンピックで選手村として使われた。その跡地が現在の代々木公園である。葬場殿仮停車場や原宿駅からの分岐線の遺構は確認できない。しかし、代々木公園内には昭憲皇太后の大喪儀葬場殿跡の記念碑があり、その付近に葬場殿仮停車場が設置されたと想像できる。なお、当時の原宿駅は現在より少し北側。現在の原宿駅と宮廷ホームの間にあったそうだ。
山手線は他にも3つの信号場が廃止されている。目黒川信号場、上大崎信号場、戸山ヶ原信号場だ。目黒川信号場は品川~大崎間にあり、現在も横須賀線や特急「成田エクスプレス」が通過する分岐点だ。ただし、1965年に大崎駅構内の設備として統合された。上大崎信号場は五反田~目黒間にあった。山手線の旅客線と貨物線の合流地点だったようだ。1935年に廃止されている。戸山ヶ原信号場は新大久保~高田馬場間にあった。軍事施設へ分岐する線路があったという。こちらも1935年に廃止されている。
葬場殿仮停車場は大喪儀限定でつくられた仮駅だけど、山手線の歴史の中で唯一の「廃止された旅客駅」といえるだろう。