小さな事故から大きな事故まで、鉄道事故は毎日のように起きている。もし、鉄道事故がゼロの国があるとしたら、それは鉄道がない国だろう。日本だって江戸時代には鉄道事故はなかった。いや、言葉遊びをするつもりはない。鉄道に限らず、あらゆる道具は使い方を誤ると人を傷つける。ときには命も奪ってしまう。そして、安全な道具があるとしたら、その道具の危険を克服した努力の成果だ。

日本初の鉄道開業と同じ日に、初の人身事故が発生していた(写真はイメージ)

明治5(1872)年9月12日、新暦で10月14日は、新橋~横浜間で官営鉄道が正式に開業した記念日だ。とても喜ばしい日だけど、じつは不名誉な記録もこの日に生まれた。鉄道を見物に訪れた人が蒸気機関車にひかれて大けがをした。日本初の鉄道人身事故だった。

その記録は日外アソシエーツが2007年に刊行した『鉄道・航空機事故全史 - シリーズ災害・事故史(1)』に記されている。鉄道の現場や安全技術の研究に使われる専門書で、定価8,400円と高価だけど、その一部の「第II部 鉄道・航空機事故一覧(抜粋)」が日外アソシエーツのウェブサイトで公開されている。鉄道と航空機の事故が時系列で並ぶ。その最初の項目は以下の通り。

0001 鉄道開業日 障害事故
明治5年10月14日 東京府
10月14日、新橋駅で鉄道開業式当日、線路に立ち入った見物人が灰落としピットに転落。上がろうとして機関車にひかれる。指切断

鉄道開業は文明開化を象徴する大事件だ。明治天皇ほか政府首脳、外国からの来賓も招いた。当時の様子を示す絵などからも、盛大に行われた様子がわかる。もちろん一般市民の見物人も大勢押しかけたことだろう。ホームは来賓が多く、警備も厳しかっただろうから、見物人は線路の周りに集まったはずだ。押すな押すなの大騒ぎだったことだろう。

そして、押し出されたか、あるいは見やすい場所を探そうとして線路を横切ろうとしたか、見物人が灰落としピットに落ちた。灰落としピットとは、蒸気機関車のボイラーに残った石炭の燃えかすを捨てる場所。レールの間に掘られた穴だ。機関車のボイラーの下側が開き、この穴に灰を落とす。見物人はそこに落ちた。

以下、痛い話になるので要注意。

レールの間には枕木があり、枕木は砂利の上に乗っている。だから、見物人はレールの間に穴があってびっくりしたことだろう。その穴から脱出するため、見物人がレールにつかまった。そこに機関車がやってくる。列車の車輪の外周は脱線を防ぐため、帽子のつばのような構造になっている。これをフランジという。見物人がレールにかけた指を、フランジがカッターのように押し切ってしまった。想像するだけでも痛い。ここまで書いて、筆者は思わず自分の指を見つめてしまった。

これが日本の鉄道史上、初めて起きた人身事故だ。死亡事故ではなかったことがせめてもの救いだろうか。

ところで、なぜこの見物人は線路に立ち入ったか、という疑問がある。いまでは線路内立入り禁止は常識だし、犯罪だ。刑法124条から129条に定められた「往来を妨害する罪」にあたる。でも、鉄道が生まれたばかりの時代には、そんな法律がなかったのだろうか。

いや、あった。東京都公文書館のウェブサイトによると、鉄道の正式開業に先駆けて、品川~横浜間で仮開業した日の3日前、明治5年の5月4日に、以下のような町触(まちぶれ)が出されていた。

「汽車の発進中に線路を横切ったり、あるいは線路上をさまよったり、荷物を落として置くようなことは、そのものの損傷だけではなく、汽車や乗客の人命に関わるから禁じる」
「踏切に汽車が近づいたらしばらく待ち、汽車が通過したあとに往来すること」

町触とは、江戸時代に町奉行が発する法律だ。時代劇で「~するべからず」と書かれた高札が登場する。あれが町触だ。明治時代になっても、人々に決め事を周知させるために町触というしくみが残っていたようだ。

その町触があったにもかかわらず、線路に人が入り、事故に遭ってしまった。これには別の原因がありそうだ。国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵された「新聞集成明治編年史. 第一卷」で、明治5年9月の新聞記事を読むと、開業記念式典に向けた触書がある。その中に「本日鉄道館地内に桟敷を架しこれに登ることを許す」とか、「鉄道館の地内で差し障りの無い場所に、下等庶民の群衆を許し」という文があった。町触で線路に入るなと言っておきながら、鉄道開業日は「無礼講」状態だったといえそうだ。その浮ついた気分が日本初の人身事故の一因と考えられる。

明治5(1872)年9月12日、日本の鉄道事故史は鉄道開業と同時に始まった。それから144年間、大小さまざまな事故と、それを防ぐ努力の積み重ねによって、日本の鉄道は安全な乗り物になった。しかし現在も事故は起きている。安全対策にゴールはない。安全に対する意識が薄れると事故が起きる。鉄道は事故と背中合わせの道具だと、鉄道職員だけではなく、利用者も心がけたい。

※写真は本文とは関係ありません。