この秋、山手線のチョコレート色のラッピング列車が話題になった。この「チョコレート色」は正しくは「ぶどう色2号」という名前で、山手線では昭和30年代までこの色の電車が走っていたという。「ぶどう色2号」という名前の理由は何か。そして、どうして当時はこの色が採用されたのか、その理由は意外にも蒸気機関車が関係していた。

山手線命名100年記念列車

当時の山手線や、その後各地に転出した旧型国電を知っている人にとっては、今回の山手線ラッピング車両の姿には違和感をあるかもしれない。新しい電車に古い塗装を再現してもピンと来ないという声もあるようだ。また、若い人には「ぶどう色」より「チョコレート色」として親しまれていた。ラッピングトレインの協賛が「チョコレートは明治」の明治製菓だったというのもあるのかもしれない。

では、昭和30年代の「ぶどう色2号」の電車はどんな姿か。山手線に使われていた電車は30系(後に10系)だが、今回は青梅鉄道公園(青梅市)にある40系電車を見てみよう。山手線の30系と同時期に、中央線で活躍した電車だ。やはりこの色は旧型車のほうが似合う。

首都圏の通勤電車で活躍した「クモハ40」(青梅鉄道公園)

当時、国鉄車両のほとんどがこの色だった

40系電車は国鉄が発足するさらに前、鉄道省時代の昭和初期に製造された。製造当時はもうすこし濃い茶色の「ぶどう色1号」が使われていた。そして、当時は山手線だけではなく、鉄道省とそれを継承した国鉄の客車、電車、電気機関車、ディーゼル機関車は、すべて「ぶどう色1号」と定められていた。

客車が「ぶどう色1号」に統一された理由は、「蒸気機関車に引っ張られたときに煤の色が目立たないから」と言われている。そして、電気機関車、ディーゼル機関車が登場したとき、今度は客車の色に合わせて「ぶどう色1号」に塗られた。電車も客車に合わせて塗られた。当時は客車を改造して電車を作った例もあり、自然な流れだったといえる。

ED16形機関車。昔の国鉄車両はほとんど「ぶどう色」だった

その後、1959(昭和34)年6月に、少し明るい色の「ぶどう色2号」が国鉄によって制定された。この色は第二次大戦後の進駐軍が、接収車両を「ミルクチョコレート色」に塗装したことがきっかけと言われている。煤煙を出す蒸気機関車の衰退に合わせるように、少しずつ全国の客車や電車などが「ぶどう色2号」に塗り替えられた。

山手線の塗装は1948年からいったん緑色になった。これは京浜東北線(当時は京浜線)と線路を供用していたため、乗り間違いを防ぐ目的だったという。しかし1950年に線路が分離されたため元に戻された。次は1961年に新性能電車101系を導入したときに黄色(カナリアイエロー)になり、1963年に投入した103系電車から黄緑(ウグイス色)となった。この頃から各路線に固有の色を導入するようになって、山手線は黄緑色に決まった。

ちなみに「ぶどう色」の名前は国鉄が定めた正式な色名だ。山葡萄の色に由来しているという。現在の山手線の黄緑色は「黄緑6号」が国鉄時代の正式名称となっていた。