いま東武鉄道というと、多くの人々が「スカイツリー」「日光へ行く電車」「スペーシア」というキーワードを思い浮かべるだろう。浅草を起点とし、栃木県や群馬県方面を結ぶ鉄道というイメージだ。これは伊勢崎線や日光線をはじめとする「東武本線」と呼ばれる路線網である。しかし東京の西側に住む人にとって、東武といえば「池袋から川越方面へ向かう通勤電車」、最近だと「TJライナー」の印象が強い。これは「東武東上線」のことを指している。
東上本線(池袋~寄居間)と越生線(坂戸~越生間)からなる東武東上線は、東武本線の路線網からは離れたところを走っている。だから知り合ったばかりの人が「東武線沿線に住んでいる」とわかっても、話が噛み合わないことがある。浅草起点と池袋起点では、生活圏も違う。
大手私鉄のほとんどがまとまった路線網を持っているのに、なぜか東武鉄道は路線網が分断されている。しかも東京から西へ向かう路線でありながら「東へ上る」と書く。考えてみたら不思議な路線だ。これはどういうわけだろう。
東武鉄道の路線網をグーグル・マップでトレースしてみた。オレンジ色が東武本線系統、赤が東上線系統である |
東武鉄道の公式サイトを見ると、路線概要に「東武本線」と「東武東上線」の2つの大項目がある。「東武本線」は伊勢崎線に接続する路線すべてが列挙されており、「東武東上線」は東上本線と越生線の2路線だけが所属している。やはり、東上線系統は他の路線と区別されている。
東武本線系統と東武東上線系統では、通勤電車のデザインは似通っている。だが駅名標のデザインは明らかに違う。駅の看板だけを見ればまるで別会社だ。そして面白いことに、業務組織を見ると、鉄道事業本部の中に「東上業務部」がある。東上線はまるで独立した事業部のようになっている。
東上本線、越生線は別会社だった
東武鉄道の中で、東上線だけがまるで別の鉄道会社のようだ。むしろ西武鉄道の一部に組み込まれたほうが違和感がないように見える。
どうしてこんな状態になっているか。その理由は東武鉄道の沿革を見ればわかる。東武鉄道の発足は1897(明治30)年。東京市本所区(現在の墨田区南部)から栃木県足利町(現在の足利市)を結ぶ計画だった。東武鉄道はこの路線の建設を足がかりに路線網を築いていく。
一方、池袋から埼玉方面へ向かう鉄道は「東上鉄道」として発足した。東武鉄道発足から14年後の1911(明治44)年である。別会社ではあるけれど、東上鉄道の社長は東武鉄道初代社長の根津嘉一郎だったという。そして、東上鉄道の本社は東武鉄道の本社内に置かれた。つまり、当時から両者は密接な関係にあった。そして、1920(大正9)年に東武鉄道と東上鉄道は合併し、現在の東武鉄道の路線図がほぼでき上がった。
小田急や東急のように、ひとつのターミナルから枝葉を伸ばす路線網ではなく、西武鉄道のように隣り合わせの鉄道を合併したわけでもない。東武鉄道は、まったく離れた路線を合併したために、現在のような分断された路線網が形成されたというわけだ。
ところで、東武鉄道の社名は「東京」と「武蔵国」を結ぶという意味。東上鉄道の「上」は「上州国」の意味である。東上鉄道は、東京と群馬県の渋川を結ぶ計画だった。分断された路線網は東武鉄道の過去の経営者も気になっていたようで、伊勢崎線の西新井駅と東上本線の上板橋駅を結ぶ「西板線」の計画があった。この名残が東武大師線である。
東武本線と東上線は、どちらも秩父鉄道の線路と繋がっている。車両を移籍する場合は秩父鉄道の線路を使ってやり取りしているとのことだ。