2000年3月に鉄道事業法が改正されるまで、鉄道事業には特許が必要だった。現在は許可制となって緩和されているが、それまでは政府の方針などによって認められない場合も多かったらしい。そんな中、鉄道事業の特許がないまま電車を走らせた会社があった。現在の阪神電気鉄道だ。「電車だけど鉄道ではない」という論法で営業を始めていたという。その論法とはどのようなものだったのだろうか。

阪神電鉄の電車は鉄道じゃなかった?

話は明治時代にさかのぼる。1872年に明治政府が新橋 - 横浜間で鉄道が開業し、注目を集めた一方で、「蒸気機関車の煙で作物が育たない」とか「飛脚や宿場が職を失う」など批判的な意見もあったらしい。しかし、鉄道がもたらす恩恵は大きく、次第に全国規模で鉄道を望む声、鉄道事業を志す起業家が生まれた。しかし明治政府は鉄道について、原則的に国有とする方針だった。大規模な施設は政府の統制が必要であり、特に鉄道は軍需輸送の要でもあるからだ。

ところが、誕生したばかりの政府には資金がなかった。全国に張り巡らせようとした鉄道網も進捗しない。そこでやむなく民間企業による鉄道建設を許可した。まずは1881年に日本鉄道だけに特許が与えられ、1887(明治20)年に「私設鉄道条例」が制定。この条例は勅令という形式で、1900年に議会を通じて私設鉄道法となった。この法律のもとで全国に民間鉄道ブームが起きた。

ただし、私設鉄道法には厳しい制約がついていた。私設鉄道はあくまでの官営鉄道を補完するルートに限られ、また「一定期間後は国有化しても良い」と約束させられた。そんな時代背景の中で、1893年に神戸と大阪を結ぶ鉄道会社「神阪電気鉄道」が立ち上がる。社名の通り、神戸と大阪を結ぶ電化路線を造る計画だった。しかしこの会社に鉄道免許は下りなかった。大阪 - 神戸間は官営鉄道と競合しており、「民間鉄道などとんでもない」というわけだ。

そこで起業家たちは知恵を絞り、「鉄道がダメなら、路面電車なら良いはず」として免許を受け、1899年6月12日に「摂津電気鉄道」を設立した。実は、私設鉄道条例とは別に、1890年に「軌道条例」が制定されおり、これは道路上にレールを敷いて運行する馬車鉄道を念頭においた条例だった。しかし馬車には糞尿などの問題があって、電車に置き換えられており、「摂津電気鉄道」はこの軌道条例によって神戸 - 大阪間の免許を得たのだった。

「摂津電気鉄道」は半月後の7月7日に「阪神電気鉄道」と社名を変更。阪神電鉄はその6年後の1905年に神戸三宮と大阪出入橋間を開業する。軌道条例は道路上の線路を認める法律だったが、一部でも道路がついてれば軌道という拡大解釈のもとで、実態は鉄道とまったく変わらない区間も多かった。出入橋は現在の大阪市北区で、梅田駅と福島駅の間にあった。大阪 - 神戸間の所要時間は90分で、12分間隔だったという。

この事例を契機に、東京や大阪では軌道条例によって認可された路線が続出。軌道条例は、路面電車の台頭に合わせて大正時代には軌道法となっている。軌道については都市の管轄として地方に権限が委ねられたことから、鉄道として認可されなくても軌道としては認可されるという事例が起きていた。そして、実は現在まで日本の鉄道は、専用の線路を走る「鉄道事業法」と、路面電車を扱う「軌道法」の両方が存在している。国土交通省が発足するまで、鉄道事業法は運輸省の管轄、軌道法は建設省の管轄だった。

現在の軌道法は路面電車だけではなく、地下鉄や新交通システムなど、道路と一体的に整備する路線に適用されている。鉄道事業法では路線の設立や廃止は届出制に変わっているが、軌道法はいまでも「新規路線は免許制」だ。廃止には認可が必要となっている。