ほほえみの国・タイは、ほんのりスリリング!? 街も人も、なにもかもが新鮮なおもしろローカル旅を50ページ超の描き下ろしマンガとともに描いた、小林眞理子さんの紀行エッセイ『タイランドクエスト てくてくローカル一人旅』(大和書房)より、オススメのエピソードを抜粋してご紹介します。

タイのワンダーランド

バンコクの私の定宿の隣には600坪ほどの大きな空き地がある。本当に真隣で6階に位置する私の部屋の窓からは、ほぼ空き地の全体を見下ろせる。普段は早朝になると表の通り側に数軒の屋台が並ぶ程度で、あとはちょこちょこ車が停められているだけ。そんな無味乾燥で荒涼とした空き地は毎週火曜と金曜と日曜の夕方になると豹変する。

夜市だ。夜市当日の15時ごろになると、どこからともなく出店者が集まり準備を開始する。トンカチで金属を叩く音や自家発電機のモーターの音が周囲に響き始めると近所も段々活気づく。そして日没を迎えるころ、ついさっきまでだだっ広いだけだったつまらない空き地には、色とりどりの屋台のテントがところ狭しと立ち並ぶ。まるで移動遊園地。

それらの屋台から溢れ出す照明は、日常をビビッドなワンダーランドへと変える。毎回こちらの夜市に出店している常連の屋台は7割ぐらいで、残りの3割は不定期だったり新規の出店だったりする。常連だとしても出店する場所はザックリとしか決まってないようで、前回は右奥にあった店が今回は中央付近に移動していたりする。そんなマイナーチェンジもあって毎度発見する楽しみがある。

「お、日本人、また来たのか」「唐辛子はどうする? やっぱ止めとく?」「今日しぼってきたオレンジは今年1番甘い。え、この前も同じこといってた?」

ちょこちょこ通っているうちに、顔を覚えてくれた店主たちが気さくに声をかけてくれる。こういう交流も楽しいしなんか嬉しくなる。気がつけば場の雰囲気と空腹からの欲求に任せ、ついつい一度には食べきれないほどの食べ物を買ってしまうこともよくある。

顔を覚えられるまで同じ夜市に通っても、食べたことのない料理やスイーツがまだまだたくさんあるのだから夜市の魅力は計り知れない。次はアレを買おう、とか、やっぱアレも買っとけばよかったかなど、もはや恒例の後ろ髪をひかれる想いを感じながら部屋に戻り、モリモリと明らかに容量オーバーな食事を終える。

しばらくして、窓の外に目をやる。いつの間にか隣はいつもの空き地に戻っている。というのも、こちらの夜市は20時過ぎには完全撤収してしまうからだ。

人々の活気、食べ尽くせぬほどのご馳走、声をかけてくれた店主たちとのやり取り。あの移動遊園地のような極彩色な空間は、そのすべてが幻だったかのように感じるほどに、今はただ、だだっ広いだけの空き地として夜の闇の中で横たわっている。

照らすものはもはや数本の青い街灯だけ。そんな兵つわものどもが夢の跡を窓から見下ろしながら、また次の夜市を心待ちにしている私がいる。はるか遠く日本に帰ってきた今も、空腹になるとふと思い出す。

ああ、あの夜市さえここにあれば。

『タイランドクエスト てくてくローカル一人旅』(小林眞理子/大和書房)

ほほえみの国・タイは、ほんのりスリリング!?
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