ほほえみの国・タイは、ほんのりスリリング!? 街も人も、なにもかもが新鮮なおもしろローカル旅を50ページ超の描き下ろしマンガとともに描いた、小林眞理子さんの紀行エッセイ『タイランドクエスト てくてくローカル一人旅』(大和書房)より、オススメのエピソードを抜粋してご紹介します。

得体のしれない生肉料理「ラープヌアディップ」

ソレに初めて出会ったのは、北部の街ナーンからアユタヤへ向かう車での道中だった。

渋滞を抜けて遅めのランチタイム、タイ人の友だちがオススメ店だと言う幹線道路沿いの小さな食堂。人気店なのであろう、地元の人たちで席はそこそこ埋まっていた。

かなりのご高齢と思われる老夫婦が営む、その家の庭の空きスペースに机と椅子を並べただけの食堂。おこぼれを期待した大きな犬が2匹も客の足元に寝そべっている。少し腰が曲がったお爺さんが注文を取りにくる。もちろん英語のメニューなどあるハズがなく、注文はタイ人の友だちに全部まかせた。

トントントントン。しばらくすると、裏の厨房から、木製のなんらかで木製のなんらかを打つ小気味よいリズムが店内に響く。リズムは必ずしもシンクロせず、たまにズレるので、どうやら老夫婦は、個々にビートを刻んでいるようだ。このトントントントンは約3分続き、ややあって、今度はおばあさんが盆に乗せてソレを持ってきてくれた。ゆっくりした動作から置かれるソレは、プラスチックのお皿に無造作に盛りつけられた真っ赤な物体だった。

「ラープヌアディップ」

と、向かいに座る友だちは、満面の笑みでコレが何かを教えてくれた。ラープは挽肉、ヌアは牛肉、ディップは生。

これこそがトントントントンの正体であるタイ風タルタルステーキもしくはユッケ、ラープヌアディップだった。

民家の庭先というロケーションの店での、得体のしれない生肉。なかなかどうして難易度が高い。タイ人の友だちは、一緒に注文した餅米をちぎって団子状にこねると、その上に一つまみしたラープヌアディップを乗っけて口にほうる。飲み込んだあと、至福の表情でひとつ唸り、おばあさんに最早受賞や昇進、出産に等しい大称賛の言葉を伝える。

それから、こちらを一瞥。顎をしゃくり、私にも目の前のラープヌアディップを食べるようにうながす。アユタヤまでの長距離を運転してくれる友だちの好意、老夫婦の苦労、ままよ、と、団子状にした餅米と共に、一気にラープヌアディップを口にほうる。

結果から言うと、口の中にはパラダイスが広がった。生肉には、第二のトントントントンの正体、刻んだパクチー、長ネギ、アーリーレッド、炒り米、唐辛子など各種スパイスが混ざっていた。

なるほど、辛さが生肉の甘みと広がりを、また、ほんのりとした胆汁の苦みが味の立体感をソリッドに際立たせる。そこに餅米が札つきの不良少年を世界チャンピオンにまで成長させるかのように適切なコーチングと包容力をもって全体の潜在能力を最大限まで引き出す。得体のしれない料理だったはずが、真相は不可避の口内パラダイス。

昔、テレビで所ジョージ氏が安全第二といっていた。もちろん、安全は重要だ。ただ、その担保ばかりを優先しすぎると、ひょっとしたら大切な経験の機会を失うことになるかもしれない。経験則や周囲の状況などをもって、自分自身の少し緩めなセーフティーラインを別に設けておくことは、旅を楽しむコツだと思う。

このときに関していえば、もちろん生肉は不安ではあったが、こうして大勢の人が食べているわけだし、香り立つほど混入された大量のスパイスは消毒や保存といった先人の知恵の遺産に相違ない。とにもかくにも、もし挑戦しなければ、私はこの喜びに出会うことはなかったわけだ。

アロイ(タイ語でおいしい)を連発しながら、ラープヌアディップにがっつく私を見て、友人は次にラープムーディップというのをすすめてきた。ラープは挽肉、ムーは豚、ディップは生。

「それは止めとくわ」と、即答。これが私の安全第二である。

『タイランドクエスト てくてくローカル一人旅』(小林眞理子/大和書房)

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