いまなお昭和の雰囲気を残す中央線沿線の穴場スポットを、ご自身も中央線人間である作家・書評家の印南敦史さんがご紹介。喫茶店から食堂まで、沿線ならではの個性的なお店が続々と登場します。
今回は、荻窪の食堂「割烹 ゆず」をご紹介。
茶色い木の板で覆われた、サラリーマンに人気の名店
荻窪駅前の南口仲通り商店街を入ったら、一本目の角を左へ。書店の文禄堂やカルディを左に見ながら直進し、「荻窪電話局前」交差点を渡ってさらに進むと、すぐ右側に「ゆず」という名の和食店が現れます。
ほぼ全面が茶色い木の板で覆われ、入り口ものれんで遮られているため店内の様子はわかりづらく、一見さんには入りづらいかもしれません。が、実はここ、地元では有名なお店でもあるのです。
初めてお邪魔し、彼女とカウンターに並んで定食を食べたのは、たしか1988年くらいのころ。たしか、とんかつを食べたのでした。「そこまで覚えてるのかよ」とツッコミが入りそうですが、つまりはそれほどおいしかったんですよ。とくに高級だったりするわけではないのですけれど、“いたって普通な誠実さ”が印象的だったといえばいいのかな。
で、気がつけばここは、お昼どきには近隣のサラリーマンに人気の名店になっていたのです。それがわかっていたので、この日は開店時刻を狙ってオープンと同時にイン。
店内は左側にテーブル席が並び、右側がカウンター。その向こう側が厨房になっています。タイル張りの壁やステンレス機器もピカピカに磨かれており、木製の棚にはたくさんの包丁がズラリ。見るからにきちんとしていて、仕事へのこだわりを感じさせます。
ずいぶんひさしぶりだったのですけれど、雰囲気はまったく変わってないなー。マスターに尋ねてみたところ、開業は昭和53年(1976年)だったのだとか。「30歳のときに開いて、あっという間に45年も経っちゃった」とのことでしたが、そんなに前からあったっけ? 80年代にできたものだとばかり思っていたので、ちょっと意外です。
ところで、この店の名物といえば、やはり「組合せ自由定食」ということになります。刺身、煮物、揚げ物、ハンバーグ、サラダなど、季節によって変わる10数種類のメニューのなかから2品もしくは3品をチョイスすることができるのです。
「これだけあると仕込みが大変なのではないか?」と余計な心配もしたくなってしまいますが、ラインナップはどれもが魅力的。そのため、「あれも食べたい、これも食べたい」と迷ってしまうことは間違いなしです。刺身が食べたかったこの日は「まぐろがおすすめ」とのことだったので、まぐろ刺身と肉豆腐を選びました。
それにしても案の定、まだ11時半だというのに続々とお客さんが入ってきます。テーブル席はあっという間に埋まってしまい、「さばみそ煮と山芋とろろ」とか、「煮込みハンバーグと野菜サラダ」とか、みんな慣れた口調で希望の品を伝えています。
少し前まで近所に住んでいた独身の友人が「単身者にとって、こういう店は助かる」と話していたのですが、たしかに煮物や刺身を食べたくなったとき、このバリエーションはありがたいですよね。
さてさて、ほどなく定食が運ばれてきました。手前にご飯と味噌汁、お新香、左奥に厚めに切られたまぐろの刺身が5切れと、その横には見るからにじっくり煮込まれているであろう肉豆腐。
見た目も含めて正統的で、まさに望んでいたとおりの定食です。
味噌汁は、かつおの出汁が風味豊かで、ご飯もほどよい炊き具合。おすすめしてくださっただけのことはあり、まぐろの鮮度も抜群です。食べ進めるごとに「体にいいものを食べているなあ」といった気持ちになれる幸せ。
しかも極めつけは、肉豆腐の完成度の高さです。見るからにじっくりと煮込まれており、細切れ肉、1/2丁くらいは余裕でありそうな木綿豆腐、こんにゃく、たまねぎ、にんじんと、すべての具材に味が染み込んでいます。
「昔からまったく変わってないよ」とマスターがおっしゃるとおり、まさに昭和の肉豆腐ですね。アツアツのそれでご飯をいただくと、なんとも幸せな気分になれるのでした。
奇をてらって派手なことをしたりするのは、実はいちばん簡単なこと。本当に難しくて、けれど大切なのは、昔からのやり方を守ることーー。ホッとする味とマスターの人柄が、そんなことを改めて感じさせてくれたのでした。
なお余談ですが、当時一緒に定食を食べた彼女とはその数年後に結婚。いまは子どももすっかり大きくなりました。息子がもう、あのころの僕と同世代になっているというのが驚きです。少し離れた街でひとり暮らしをしているあいつにもこんど、この店のことを教えようかな。
●割烹 ゆず
住所:東京都杉並区荻窪4-21-18 荻窪スカイハイツ102
営業時間:11:30〜14:00(L.O.13:50)、17:30〜20:00
定休日:日曜日、祭日