フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


新しい写植機の開発

5大印刷会社では実用に値せずとお蔵入りしてしまった邦文写真植字機だが、1930~31年 (昭和5~6) にかけて2台導入した海軍水路部では順調な成果を上げていた。2台目の導入からしばらくすると、今度は「海図製作用の専門写真植字機をつくれるか」と依頼があった。2台目の納品が1931年3月20日だから、1931年なかば (5、6月ぐらいか?) ごろのことだろうか。 [注1]

  • 【茂吉と信夫】海図専用機の設計依頼

    『実業之日本』34(19) 昭和6年10月号の倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す」の記事に掲載された、茂吉と信夫の写真 (p.158)

写真植字機研究所に茂吉をたずねてやってきたのは、海軍水路部の技官・松島徳三郎だ。彼は依頼の背景をこう語った。

「現状では写真植字機で打った文字を海図に貼りこんだり、手書きしたりしているが、能率が悪い。海図専用の写真植字機で図面に文字や数字を直接打ちこめるようになれば効率がよいし、品質も上がる」

松島は、さらにつけくわえた。

「その専用写真植字機でできた作品を、1933年 (昭和8) にニューヨークで開催される世界水路会議に持参して、発表したいのだ」 [注2]

海軍水路部はこのころ、製版や印刷の新技術研究に積極的に取り組み、さまざまな展覧会に海図などを出品してその成果を示していた。たとえば1932年 (昭和7) には白木屋でおこなわれた「上海博覧会」、浅草松屋「メートル法及び家庭博覧会」、新宿三越「船の博覧会」、遊就館「兵制60周年記念博覧会」といった催しのすべてに出品している。 [注3]

松島の話を聞いた茂吉の顔は、輝いた。邦文写真植字機の注文はぱったりと止まっていたし、いくが営んでいた神明屋はすでに番頭にゆずり、その収入もなくなって、写真植字機研究所の経済状況はますます圧迫されていた。一刻もはやく本機の改良を進めなくてはならない状況ではあったが、茂吉にはあたらしい開発に対する技術家としての使命感があった。しかも、基本的には従来の写真植字機の暗箱機構に工夫をくわえればよいはずだ。 [注4]

茂吉はさっそく信夫にこの話をし、彼の構想も伝えた。あたらしい機械の開発には目がない信夫である。

「おもしろい。やりましょう!」

設計図は、信夫が作成することになった。信夫は夢中になり、献身的ともいえる努力でこの設計に取り組んだ。 [注5]

信夫不在のあいだに

信夫は明けても暮れてもあたらしい機械のことをかんがえた。寸暇も惜しみ、娯楽のかけらもなく研究に没頭する生活を送るうち、彼はいつしか30歳を超えていた。 [注6]

郷里の両親は信夫のことを心配し、彼の嫁を探した。ようやく良縁があり、1931年 (昭和6) も押しせまった12月23日、信夫は結婚するために明石に帰郷した。 [注7]

妻・重子は、明石で江戸時代からつづく老舗和菓子店・人丸堂の娘だった。信夫より5歳下の1906年 (明治39) 1月15日生まれ。自然とまわりに人があつまるような、やさしい女性だ。どういういきさつで信夫との縁談がもちあがったのかはわからない。しかし両家はご近所だった。 [注8]

ぶじに結婚式を終え、一段落した信夫は、重子を連れて帰京した。ふと見まわすと、工場の様子がおかしい。工場にあった数台の写真植字機の姿が見えないのだ。

「機械はどうしたんですか」

たずねると、茂吉は

「財政上やむをえず、機械を売ったんだ。了解してほしい」

とだけ答えた。

自分が留守にしているあいだに、なぜ。

ただでさえこの1931年 (昭和6) は、夏に石井茂吉に対して恩賜発明奨励金があたえられたことで、茂吉のみが発明者としてメディアに出ることが増え、信夫のなかにもやもやした気持ちが芽生えていた。自分のいないあいだに機械を売ってしまった茂吉が、信夫には独断的に見えた。

「協同事業とは内部でのみ通用することなのか。自分が工場のなかで、つぎつぎと機械の問題を解決し、その改良にふけっているあいだに、外部的なことは石井さんが専行し、世間は世間で、工学士の肩書をもち、自分より14歳上の石井さんを主人公視して、ぼくの存在を知るひとはすくない……」 [注9]

言い訳を潔しとしない茂吉は、必要最小限の説明以外に言葉を重ねない。信夫の心に巣食った不信感は、おおきくふくらんでいった。

(つづく)
(次回は2025年1月7日に掲載予定です。)

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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 海軍水路部への2台目の納品日は、1931年 (昭和6) 3月12日に海軍水路部と写真植字機研究所のあいだに交わされた購買契約書を参照した (本連載第43回 「海軍水路部からの注文」 https://news.mynavi.jp/article/syasyokuki-43/ 参照) なお、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.20には〈それは昭和六年の初め頃だったと思う〉と記述されているが、海図専用写真植字機の設計依頼は2台目納入のあととかんがえるのが妥当とおもわれるため、本稿では『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.114〈(前略) 水路部では良好な実績をあげていたので、続いて二台目を増設したが、それからしばらくして、こんどは海図用の写真植字機をつくれるかといってきた〉の記述に依った。

[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.114 なお、ここで挙げられている〈 ニューヨークで開かれる(筆者注:昭和) 八年の世界水路会議〉を調べたが、見つけられなかった。近いのは、モナコで開催された「国際水路会議」だが、これは1932年 (昭和7) 4月におこなわれている (「1932年第3回国際水路会議議題録抜萃」『水路要報』第11年(1)(110) p.39、水路部、日本郵船、1932年1月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1511145/1/44 (参照 2024年10月5日)

[注3] 「印刷図書館:印刷史談会/印刷アーカイブス - ぷりんとぴあの小箱 印刷史談会」( https://www.jfpi.or.jp/printpia4/part3_01.html )より、1967年 (昭和42) 1月26日に開催された史談 松島徳三郎「大正時代の海軍水路部印刷所」https://www.jfpi.or.jp/files/user/pdf/printpia/pdf_part3_01/part3_01_002.pdf (2024年10月5日参照)

[注4]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.114-115

[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.114-115、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.20、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.121

[注6] 森澤信夫は1901年3月23日生まれ。1931年 (昭和6) の誕生日で30歳になっていた。

[注7] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.20、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.121

[注8] 森澤信夫三男・森澤季公生氏 (取材当時モリサワ顧問) への取材より (2023年2月13日、取材協力 : モリサワ)

[注9] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.121-122

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ