フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
上野公園での一大イベント
1932年 (昭和7) 3月20日から5月10日まで、上野公園不忍池の北畔で発明博覧会がおこなわれることになった。主催は帝国発明協会。
1909年 (明治42) に上野で第1回、1914年 (大正3) に大阪市で第2回、1923年 (大正12) に上野で第3回がおこなわれたのに次ぐ、第4回目の発明博覧会だった。第1~3回まではいずれも予想以上の成功をおさめたが、1923年9月1日の関東大震災によって、東京の大半が焦土と化した。以降、復興に数年を費やし、ようやく産業界の傷が癒えたところで、今度は世界的な不況に見舞われた。財界が直面している難局を打開するには、発明の振興が最重要ということで、帝国発明協会は第4回の発明博覧会を計画したのである。 [注1]
博覧会には発明考案品や登録商標を取得した優良国産品を展示し、その利用を普及促進させるという。茂吉と信夫の写真植字機研究所は、未完成ながらも自分たちの邦文写真植字機を出品することにした。 [注2]
上野公園を利用した第4回発明博覧会の会場敷地総面積は、6,598坪。建物の総面積は2,436坪だった。前庭の東南端に建てられた正門はネオ・ルネッサンス様式で、高さ約16.4mの矩形の門軸には多数のひだが施されていた。尖端には金色の玉が配置され、中央部には「第四回発明博覧会 主催 帝国発明協会」の文字が横書きされ、電燈と電飾できらびやかに光っていた。
敷地には日本産業協会から借りた産業館を本館とし、そのほか、博覧会のために建てられたエジソン館や陸軍館、海軍館、迎賓館、JOAK館、奏楽堂、余興館そのほか特設館や売店などが並んだ。本館は東西南北の4館に分けられ、西館はすべて「動力館」とされた。
第4回発明博覧会のおおきな特徴は、出品者が来場者に発明品を即売できることだった。さらに動力館では、機械類を並べるだけでなく、実演できるようになっていた。
一般の来場者に興味を持ってもらい発明に対する理解を得るためには、発明の特徴や運転方法などをくわしく説明するだけでなく、機械を実際に運転して見せることが大事だ。だから帝国発明協会は諸機械を動力館に集め、出品者が各自で電動機を据え付けて、機械を運転して一般の人が見られるようにしたのだ。ただし、電力料金や動力設備費用は出品者各自の負担だった。
邦文写真植字機は、この動力館に展示された。与えられたスペースは2坪。ほかには、浜田印刷機製造所・浜田初次郎の四六半裁フィーダー付きオフセット輪転印刷機や、中馬鉄工所の二回転凸版印刷機、そのほか製本機械や青写真印刷機械などが並んだ。もちろん印刷関連機械に限らず、冷凍機や製麺機、加熱電気炉といったさまざまな機械がこの動力館に集められた。 [注3]
充実のパンフレット
写真植字機研究所は、邦文写真植字機を動かし信夫みずから実演説明をするほか、小型映画を映写して、映画字幕に写真植字が使われていることもおおいに宣伝した。 [注4]
はじめはパンフレットをつくらず、口頭で機械の説明をしていたが、日々多くの来場者がやって来て、驚きと賞賛とともに写真植字機を見ていく。その多くの人々から「くわしい説明書があれば送ってほしい」と熱望されることが相次ぎ、茂吉は急遽、パンフレットを制作した。全16ページのりっぱなものだ。印刷は日清印刷にたのんだ。
使用されている書体は明朝体、ゴシック体、楷書体。レンズによる大小変化の見本もつけた。飾り罫や地紋の見本も収録。説明文は組み見本の役割も果たした。
ひとつ残念だったのは、茂吉が1930年 (昭和5)ごろから取り組んでいたあたらしい明朝体 (のちの石井中明朝体) がまにあわなかったことだ。文字盤の完成まであと一息だったが、発明博覧会の会期中に急いでパンフレットを作成する必要があったため、すぐにつかえる現行明朝体 (仮作明朝体) で組まざるを得なかった。茂吉は、パンフレットの最後にこんな文章を載せている。
〈現明朝体文字盤 (本文植字のもの) 完成後、印刷界有識者数氏の御批判と御教示により、更に改良を加へたる新明朝文字盤が殆ど完成し、旬日後には新明朝による植字が出来るやうになり、本説明書に一段の光彩を添へるのでありますが、発明博の関係で取り急ぎましたため間に合はなかったのは遺憾であります〉 [注5]
営業科目には、つぎの4つを掲げた。
一、邦文写真植字機の製作
一、写真植字原版ならびに印刷製版の供給
一、写真植字による印刷物の引受
一、映画字幕の製作
[注6]
写真植字機は、数多くの出品物のなかで呼び物となり、会期中の4月18日、ほかのいくつかの機械とともに、発明博覧会の注目発明として東京朝日新聞に取り上げられた。 [注7]
一般社会へのデビュー
発明博覧会では、会期中に審査がおこなわれ、出品者のうち優れたものにつぎの3種の褒賞があたえられることになっていた。
一、大賞:技術上の進歩および実施上の効果卓越せるもの
二、進歩賞:技術上の進歩優秀なるもの
有功賞:実施上の効果優秀なるもの
三、褒状:技術上の進歩または実施上の効果優良なるもの [注8]
出品された発明品は、機械工業、化学、製作、農林、意匠、商標の6つの部門に分けられ、それぞれのなかで分掌を定めて審査された。邦文写真植字機は「第1部 機械工業」のうち、「第10分掌 印刷機」のなかで審査され、進歩賞に選ばれた (主任審査官は廣瀬基)。
受賞の理由は、報告書にこのように記されている。
〈本出品は従来の自働植字機及「モノタイプ」「リノタイプ (筆者注:ライノタイプ)」より更に一歩を進めたるものにして前後左右に移動し得る透明文字盤上の文字を下方の電燈によりて照明し之を十個の拡大度を異にする「レンズ」によりて任意の大きさに暗箱内の「フイルム」に影写し斯くして文字盤上の文字を次々に「フイルム」に写真植字するものにして各部に亙りて巧妙なる工夫を施したるものにして将来印刷界に一大転換期を与ふるものと謂ふべし〉[注9]
なお、機械工業部門では、出品人数250、出品点数797のうち、大賞20点、進歩賞37点、有功賞32点、褒状35点で、計124点、出品の約半数が授賞された。[注10]
発明博覧会の52日間の会期中は天候にめぐまれ、雨が降ったのはわずか6日だった。東京市内の電車や市営バスは「発明博覧会行き」を運行し、ふくびきや工場労働者の無料入場デーなども実施した結果、会期を通しての入場者数は33万人あまり、1日平均約6,300人、最高記録約2万8,000人におよぶ盛況ぶりとなった。[注11]
連日多くのひとが訪れた写真植字機研究所ブースだったが、記録を見ると、その場で受注にまでは至らなかったようだ。[注12] しかしじつは、ここで写真植字機に出会って惚れこみ、のちに愛用者になるアオイ書房の志茂太郎も来場していた。
茂吉と信夫の写真植字機は、この発明博覧会で、晴れて一般社会へのお目見えを果たしたのだった。[注13]
(つづく)
出版社募集
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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com
[注1] 発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 p.1 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555/1/29 (参照 2024年10月2日)
[注2] 石井茂吉「写真植字機――光線のタイプライター――」『書窓11』2(5)、アオイ書房、1936年3月 p.403、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.34
なお、『書窓11』2(5) で石井茂吉は〈過ぐる昭和四年の春開催された発明博覧会に〉と書いているが、これは昭和7年のまちがいであり、『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』では〈昭和七年の春〉と修正して記載されている。
[注3] 発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 pp.40-42、118-119 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555 (参照 2024年10月2日)
[注4]「発明博の印刷関係出品覗き」『印刷雑誌15(4)』昭和7年4月号、印刷雑誌社、1932 p.54
[注5] [注6]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 巻末収録の復刻版 p.16
[注7] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.126
[注8] 発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 p.9 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555/1/33 (参照 2024年10月2日)
[注9] 発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 pp.289-290 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555/1/180 (参照 2024年10月2日)
[注10] 発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 p.144 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555/1/105 (参照 2024年10月2日)
[注11] 発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 p.3 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555/1/30 (参照 2024年10月2日)
[注12]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.48-49
[注13] 石井茂吉「写真植字機――光線のタイプライター――」『書窓』2(5)、アオイ書房、1936年3月 p.403
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
発明博覧会 編『発明博覧会報告』第4回、第四回発明博覧会、1932 p.1 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225555 (参照 2024年10月2日)
石井茂吉「写真植字機――光線のタイプライター――」『書窓11』2(5)、アオイ書房、1936年3月
布施茂『技術者たちの挑戦 写真植字機技術史』創英社発行、三省堂書店発売、2016
「発明博の印刷関係出品覗き」『印刷雑誌15(4)』昭和7年4月号、印刷雑誌社、1932
『発明』29(4)、発明推進協会、1932.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3206512 (参照 2024年10月2日)
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ