フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
恩賜発明奨励金の交付
海軍水路部から2台目の注文が入って以降、ぱったりと写真植字機の注文が途絶えてしまった1931年 (昭和6) の8月、写真植字機研究所に朗報が舞いこんだ。石井茂吉が恩賜発明奨励金を授与される発明家の一人として選ばれ、1,000円が交付されるというのだ。
昭和のはじめ、日本では産業発展に役立つ発明考案の必要性が注目され、官民挙げてその研究と奨励に力を入れていた。1930年 (昭和5) の明治節 (11月3日) [注1] には、天皇陛下より「向こう10年間にわたり毎年1万円の奨励金を帝国発明協会に御下賜」の御沙汰があり、同協会ではその有意義な使途を検討した結果、「恩賜発明奨励金」として発明家に交付することになった。 [注2]
発明家の人選は、帝国発明協会の調査委員が審議し、理事会が決議して決定された。考慮されたのは、以下のような項目である。
一、原則として既に特許を得たもので、経済的不如意のためその理想的完成を見るに至らぬもの、又は未だ実用的とならないでいるもの
一、社会的に有用のもの
一、向う一ヶ年でその完成を見るに至るであろうと思われるもの
一、発明家の人格に申分なきこと
[注3]
第1回交付で選ばれたのは、つぎの9名の発明家だ (カッコ内は交付金額)。
一、写真植字機 (千円) 石井茂吉
一、硬質紙器製造法 (五百円) 河野篤二
一、再生絹糸製造法 (五百円) 山本三六郎
一、遠心力鋳造法による管鋳造装置の改良 (千円) 中島純一
一、酸化金属磁石 (五百円) 加藤與五郎
一、飛行機翼の最大揚力に最小抗力の比を増加する装置 (五百円) 和田小六
一、テレヴィジョン (千円) 山本忠興、川原田政太郎
一、テレヴィジョン (千円) 高柳健次郎
[注4]
8月24日には、丸の内にある日本倶楽部で第1回恩賜発明奨励金交付式がおこなわれた。光栄に輝いた9人の発明家たちは、隠しきれぬ感激と喜びの表情を満面にたたえ、晴れの盛装で集まった。茂吉も背広を着て出席した。帝国発明協会からも幹部を中心に約40名が出席した、盛大な式典だった。同会久米副会長からのあいさつのあと、同氏の手から9名の発明家に恩賜奨励金がそれぞれ手渡され、約50分の式典は終わった。 [注5]
かすかな不穏の兆し
恩賜発明奨励金の交付は、長く経済困難に苦しむ茂吉にとって、経済的にも助けになった。いや、写真植字機研究所にとって千円という金額は、夏のにわか雨がつくった水たまりのようなもので、またたくまに乾いてしまう程度に過ぎなかったかもしれないが、恩賜発明奨励金の交付にふさわしいと選ばれ、評価されたことは茂吉を力づけたし、邦文写真植字機が世間に知られ、理解を得る機会となることはありがたかった。
実際、それまで茂吉と信夫が邦文写真植字機の開発に取り組む姿を見て「いいかげん、馬鹿なことはやめればいいのに」と陰口をたたいていた人たちが、恩賜発明奨励金の交付によって「それほどの大発明だったのか」と驚き、激励の手紙を書いてよこす人も少なくなかった。 [注6]
しかし同時に、この交付は、かすかな不穏の兆しでもあった。
恩賜発明奨励金は、組織ではなく発明家個人に与えられている。ひとつの研究に対し、対象となるのは必ずしも1人のみでないことは、テレヴィジョンの発明に対し連名で授与された山本忠興、川原田政太郎の例を見てもわかる。
だが写真植字機の発明に対し選ばれたのは、石井茂吉のみだった。
奨励金の交付と前後して、恩賜発明奨励金自体、あるいは写真植字機を取り上げた記事が新聞や雑誌に掲載されたが、それらの記事は「写真植字機は石井茂吉が発明した」と告げ、森澤信夫の名前はそこになかった。ひとつ1925年 (大正14) にも茂吉と信夫が試作第2号機を完成させたときに5ページにわたって大きく取り上げた『実業之日本』誌では、今回も変わらず茂吉と信夫ふたりの発明として、ふたたび5ページの記事で写真植字機を取り上げたが、それはむしろめずらしいケースだった。 [注7]
なぜ、こんなことになったのだろうか?
恩賜発明奨励金は、帝国発明協会の調査委員によって審議され、理事会の決議をもって決定された。この調査委員には、工学博士の関口八重吉、密田良太郎にくわえ、同じく工学博士の加茂正雄の名があった。 [注8] 加茂は、東京帝国大学機械工学科時代の茂吉の恩師である (本連載 第3回「京北の麒麟児」参照) 。茂吉の優秀さをだれよりも知る師が、工学士の茂吉が14歳下で学歴のない信夫と写真植字機の開発に取り組んでいると知ったとき、それは茂吉が主導した研究であるという思いこみを抱きはしなかったか。
大正末から昭和はじめの時期、ふたりの写真植字機は基本的に、試作機の発表であるとか、奨励金を交付されたといったトピックがあったときにメディアに取り上げられている。しかし、そうした背景がなく、なぜか同時期にいくつかの新聞雑誌に記事が出たことがある。恩賜発明奨励金交付の約半年前、1931年 (昭和6) 3月のことだ。邦文写真植字機について、いずれもこう書いている。
〈この発明者は東京府下王子堀の内五一六に住む石井茂吉氏という工学士と助手の森澤信夫君の二人で、大正十三年から着手して八年目でようやく完成したが同機の威力はすでに認められ多数の印刷業者が永年使い馴れた活字を捨ててこの植字機を利用せんとしている〉
実際には、この時期に共同印刷をはじめ各印刷会社が納入した写真植字機はお蔵入りとなっており、若干盛った表現となっているのだが、それはさておき、ここで着目したいのはふたりの紹介のしかただ。信夫は「助手」と紹介されている。
筆者が把握しているかぎりで掲載メディアは3つ。
「本邦印刷界の革命」「内外彙報」『東京工場懇話会会報』(54)、東京工場懇話会、1931年3月20日発行
「印刷界の革命 邦文植字機成る」『大阪毎日新聞』1931年3月13日
「活字のいらぬ邦文植字機の発明 写真を応用して」『東京日日新聞』1931年3月14日
このうち大阪毎日新聞掲載の記事は、前半3分の2は『東京工場懇話会会報』とまったくの同文、記事の最後は『東京工場懇話会会報』の内容をやや省略してまとめたものに見える。東京日日新聞の記事は、前段に独自の書き出しを入れているが、それ以降は、多少語句の表現を変えている部分はあるものの、『東京工場懇話会会報』とほぼ同文だ。とすると、両新聞の記事は、『東京工場懇話会会報』に記事が出たことを機に書かれたものかもしれない。
そして『東京工場懇話会会報』で当該記事を掲載している「内外彙報」(国内外の工業に関する報告を集めたページ) の同一ページにおいて、当該記事の前に「恩賜発明奨励金交付規定決定」の記事が掲載されている。内容は、帝国発明協会が日本倶楽部で理事会を開催し、恩賜発明奨励金の交付規定について審議し、決定したことの報告。〈発明奨励金を交付すべき者及其の金額は本会調査委員の審議を経て理事会の決議に依り之を決定す〉とあり、理事会の約15名の出席者のなかには、やはり加茂の名がある。 [注9]
これはあくまで推測にすぎないが、このときの帝国発明協会の理事会で、すでに茂吉の邦文写真植字機が話題にのぼったのではないか。推薦者のひとりはおそらく加茂であり、彼がふたりのことを「石井茂吉氏という工学士と助手の森澤信夫くん」と紹介したのではないか。筆者の推測にすぎないが、信夫の名が助手としてメディアに出てしまったことの背景に、茂吉の能力と人柄を高く評価する人物の存在があった気がしてならない。 [注10]
茂吉はやがて、加茂が評議員をつとめる機械学会で講演会をおこなうなど、写真植字機の発明者として、学術界でその名を定着させていく。 [注11]
いっぽうの信夫は、このころから、〈石井氏は、どうゆうものか森沢という名前が出ることを段々嫌らうようになった〉 [注12] と感じはじめる。茂吉には、そんなつもりはなかったかもしれない。しかし信夫の胸のうちには、もやもやした気持ちが巣食うようになっていった。
(つづく)
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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com
[注1] 明治節:昭和前期にあった祝日。明治天皇の誕生日である11月3日に定められた。1948年 (昭和23)廃止。
[注2] 恩賜発明奨励金については、「工芸時報」『帝国工芸 5(9)』帝国工芸会、1931年9月 p.483 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1547513/1/30 (参照 2024-09-30) 、崎田弘「特許 (実用新案) に就て」『東京工業会誌』34(4)、東京工業会出版部、東海堂 1932年04月 pp.98-99 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1548855/1/7 (参照 2024-09-30)、「感激と嘉悦を秘めて 厳かな恩賜発明奨励金贈呈式 光栄に輝く九発明家」『発明』28(9)、帝国発明協会 (発明推進協会)、1931年9月 pp.90-93 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3206505/1/49 (参照 2024-10-02)、「恩賜の御奨励金を発明家九名に分つ」『大阪朝日新聞』1931年8月21日 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100197288 (参照 2024-09-30) 、「内外彙報」『東京工場懇話会会報』(54)、東京工場懇話会、1931年3月 pp.54-55 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1487168/1/31 (参照 2024-10-02) などを参照
[注3] 「工芸時報」『帝国工芸 5(9)』帝国工芸会、1931年9月 p.483 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1547513/1/30 (参照 2024-09-30) なお、引用文は現代かなづかいに改めた
[注4] 同上
[注5] 「感激と嘉悦を秘めて 厳かな恩賜発明奨励金贈呈式 光栄に輝く九発明家」『発明』28(9)、発明推進協会、1931年9月 pp.90-93 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3206505/1/49 (参照 2024-10-02)
[注6] 倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す――石井、森澤両氏の八年間の発明苦心物語――」 『実業之日本 34(19)』実業之日本社、1931年10月 pp.157-161
[注7] 倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す――石井、森澤両氏の八年間の発明苦心物語――」 『実業之日本 34(19)』実業之日本社、1931年10月 pp.157-161/1925年の記事は杜川生「印刷界の一大革命 活字無しで印刷出来る機械の発明」『実業之日本 28(23)』実業之日本社、1925年12月pp.129-133
[注8] 崎田弘「特許 (実用新案) に就て」『東京工業会誌』34(4)、東京工業会出版部、東海堂 1932年04月 pp.98-99 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1548855/1/7 (参照 2024-09-30)
[注9] 「内外彙報」『東京工場懇話会会報』(54)、東京工場懇話会、1931年3月 pp.54-55 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1487168/1/31 (参照 2024-10-02)
[注10] 東京高等工芸専門学校で邦文写真植字機の開発に取り組んでいた際に茂吉が教えを請うた鎌田弥寿治もその一人だったろう (本連載 第31回「鎌田教授の絶賛」参照 https://news.mynavi.jp/article/syasyokuki-31/)
[注11] 1933年(昭和8) 東京講演会 (例会講演会) で、7月12日「写真植字機に就て」正員 工学士 石井茂吉君 とある 「第11期第2回理事会議事録 (昭和8年5月11日午後5時本回事務所に於て開催)」『機械学会誌 36(194)』機械学会、1933年6月 p.436 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2312847/1/39 (参照 2023-03-06)
[注12] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.20
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
「工芸時報」『帝国工芸 5(9)』帝国工芸会、1931年9月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1547513 (参照 2024-09-30)
崎田弘「特許 (実用新案) に就て」『東京工業会誌』34(4)、東京工業会出版部、東海堂 1932年4月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1548855 (参照 2024-09-30)
「感激と嘉悦を秘めて 厳かな恩賜発明奨励金贈呈式 光栄に輝く九発明家」『発明』28(9)、発明推進協会、1931年9月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3206505 (参照 2024-10-02)
「恩賜の御奨励金を発明家九名に分つ」『大阪朝日新聞』1931年8月21日 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100197288 (参照 2024-09-30)
「内外彙報」『東京工場懇話会会報』(54)、東京工場懇話会、1931年3月 pp.54-55 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1487168 (参照 2024-10-02)
倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す――石井、森澤両氏の八年間の発明苦心物語――」 『実業之日本 34(19)』実業之日本社、1931年10月 pp.157-161
倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す――石井、森澤両氏の八年間の発明苦心物語――」 『実業之日本 34(19)』実業之日本社、1931年10月
杜川生「印刷界の一大革命 活字無しで印刷出来る機械の発明」『実業之日本 28(23)』実業之日本社、1925年12月
『機械学会誌 36(194)』機械学会、1933年6月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2312847 (参照 2023-03-06)
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ