フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
ふたつ目の文字盤「実用第1号機文字盤」
1925年 (大正14) に初めて「試作第1号機文字盤」を製作した茂吉は、印字してみてすぐさま、文字盤を「大きな壁」と感じていた。文字の形が崩れている。そのままでは、邦文写植機の実用化はむずかしいだろう。
そこで茂吉は、写植機用レンズの計算が一段落した1928年 (昭和3) はじめごろ、実用第1号機の開発がすすめられるかたわらで、第二弾の文字盤製作に取り組むことにした。1929年 (昭和4) に完成し、同年9月から翌春にかけて共同印刷や秀英舎などの印刷会社に納品した実用機に搭載された、「実用第1号機文字盤(仮作明朝体)」――のちに5社から「この文字では使えない」と評された文字盤である。
実用機搭載のための文字盤製作をふりかえり、『石井茂吉と写真植字機』にはこう書かれている。
〈どうしても、そのための文字 (筆者注:写植のための文字) が必要になった。茂吉はこれにも手をつけた。どこにもそんな文字はなかったし、やってくれるところがなかったからである〉[注1]
なぜ「どこにもそんな文字はなかった」し「やってくれるところがなかった」のだろうか。
「どこにもなかった」理由
1935年 (昭和10) 5月15日に開催された印刷雑誌主催の座談会「活版及活版印刷動向座談会」[注2] で、印刷雑誌社の郡山幸男に「写真植字機の書体の経歴」をたずねられた茂吉は、こう話している。
〈あれは初めから計画を樹ててやったのではないのです。実は、研究を進めてゆくうちに金につまって、立派な技術をもっている人に丹念に書いて貰うことが出来ず――なにしろ金につまりましたので…… (笑声) 、私が書いたのです。私の技術で出来る限りのものを作った結果でして、この結果の批判がどうかということは、出来てみる迄は分からなかったのです。最初作ったものはどうも感心しなかった。最初共同、秀英、日清、凸版四社で採用して貰った頃のは、満足しなかった。何とかせねばならぬとは考えましたが、結局、自分でこつこつやらねばならなかったのです。数年間文字ばかり書いていました (後略) 〉[注3]
文字の研究に着手することになったのは、計画的ではない。行きがかり上、自分自身でやらなくてはならなくなった。茂吉は「金がなくて立派な技術をもっている人に頼めなかった」と言っているが、この時代、そもそも茂吉が求めるような文字――印刷用の明朝体やゴシック体などを描ける人は、ごくわずかしかいなかった。それは、活版印刷がまだ「電胎母型の時代」だったからだ。
活版印刷の時代をふりかえるとき、ひとくくりに「金属活字の時代」とされがちだが、書体制作の観点からみれば「種字からつくる電胎母型の時代」と「ベントン彫刻機 [注4] による彫刻母型の時代」とに分けられる。日本では明治はじめから戦後まもなくまでがおもに「種字からつくる電胎母型の時代」、第二次世界大戦終戦後の1949年 (昭和24) ごろからが「ベントン彫刻機による彫刻母型の時代」となる。書体制作、文字のデザインのしかたがおおきく変わるのだ。
戦後の「ベントン彫刻機による彫刻母型の時代」においては、書体制作はまず約5cm角の紙に筆記具で、活字原寸ではなく拡大サイズで原字を描くところからスタートした。しかし、茂吉が文字と文字盤の研究に取り組みはじめた昭和初期においては、本連載前回でもふれたように、種字彫刻師が原寸使用を前提に鏡文字で凸刻した種字をおおもとの型として、活字がつくられていた。つまり1928年 (昭和3) の段階では、「明朝体を紙に拡大原字で描く」ことは一般的にはおこなわれておらず、それができる人は日本にごくわずかだったのである。「紙に拡大原字を描く」方法が一般的になるのは、ベントン彫刻機、そして写真植字機が普及してからの話だ。[注5]
楷書や行書、隷書といった筆書体であれば書家に原字をたのむ方法もあったが、明朝体にかんしては、まさに〈どこにもそんな文字はなかったし、やってくれるところがなかった〉のだ。[注6]
このころの茂吉は、印刷業界とのつながりもまだ薄く、活版印刷についても疎い。おそらくはほとんど独学で、文字 (書体) の研究に取り組んだのだろう。「やってくれるひとがいなければ、みずから研究し、手を動かす」。写植機開発の第一の壁だったレンズ製作もそうだった。茂吉のその一面が、文字と文字盤についても発揮されたのである。
(つづく)
[注1]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.103
[注2]「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』1935年5月号、印刷雑誌社、1935 pp.14-26
[注3]「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』1935年5月号、印刷雑誌社、1935 pp.19-20、また、1962年 (昭和37) に掲載された『季刊プリント1』の座談会「書体設計者はパイオニアの精神で……」でも〈私の文字は始めからこういう文字を作りたいという意図でもって、出発したわけではないのです (後略) 〉と語っている。「書体設計者はパイオニアの精神で……」『季刊プリント1』印刷出版研究所、1962.3 p.27
[注4] ベントン彫刻機:活版印刷にもちいる活字を量産するための型を彫刻する機械。アメリカのリン・ボイド・ベントン (Linn Boyd Benton 1844-1932) がもともとは父型を彫刻するための機械として1885年 (明治18) に考案し、1906年 (明治39) 、母型も直接彫ることができる改良型ベントン彫刻機の特許が登録された。日本では印刷局が1912年 (明治45) にアメリカン・タイプ・ファウンダース (ATF=American Type Founders) から母型彫刻機として輸入。戦前、日本では印刷局、東京築地活版製造所、出版社の三省堂の3者しかもっていなかったが、1948年 (昭和23) 、大日本印刷が三省堂の協力を得、津上製作所に製作させた国産機が完成。1949年 (昭和24) より一般販売され、新聞社や母型製造会社、印刷会社などに普及した。(雪朱里『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』三省堂、2021)
[注5] 1928年 (昭和3) の時点で印刷用書体の拡大原字を描いていたのは、日本で戦前にアメリカのベントン彫刻機を導入していた印刷局、東京築地活版製造所、三省堂の3者ぐらいではないか。 (雪朱里『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』三省堂、2021)
[注6] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.103
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
「書体設計者はパイオニアの精神で……」『季刊プリント1』印刷出版研究所、1962.3
「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』1935年5月号、印刷雑誌社、1935.5
倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ、株式会社イワタ
※特記のない写真は筆者撮影