フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


開校記念日のお披露目

11月15日は東京高等工芸学校の開校記念日だった。1926年 ( 大正15 ) の同日、同校が一般公開され、他にも機械などが展示されるなか、ふたりの邦文写真植字機 試作第2号機は展示され、実演もおこなわれた。

場所は活版室。おなじ部屋に、ライノタイプ欧文活字鋳植機が置かれていた。本連載 第24回で取り上げたように、ライノタイプはキーボードのキーを押すと、該当する活字母型が機械上部の母型庫の溝から落ちてきて、順番に並んでいく。1行分の母型が並ぶと鋳造部に送られ、行長調整がおこなわれたのち、そこに地金が流しこまれて1行分の活字塊 ( スラッグ ) を鋳造する機械だ。機械を操作すれば音も出るし、目に見えて母型が動き、活字が生まれてくる。動きがダイナミックなのだ。

いっぽう、邦文写真植字機は静かだ。何千もの字がおさめられた文字盤は1枚のガラス板で、近づかなければよく見えないし、印字されたものは暗箱のなかで、現像も必要であり、その場ですぐに結果が見られるわけではない。

活版室を訪れたひとびとは、存在感たっぷりのライノタイプにむらがり、写真植字機にあまり関心を示さなかった。信夫はそのときの落胆ぶりを、数十年後になっても語っていたという。[注1]

掲げられた看板

しかし開校記念の場には、のちに写真植字機にかかわることになる海軍水路部技術部のひとびとが茂吉に招待されて来場して見学してくれたし、[注2] 『印刷雑誌』にも「邦文写真植字機遂に完成」と4ページの記事でおおきく取り上げられた。[注3] 結果的には前回をうわまわるほどの注目と賞賛を浴び、いよいよ実用機に着手しようという決意がふたりのなかで固まった。

実用化するには、機械を複数台製作できる環境が必要だ。茂吉は、王子 ( 堀ノ内 ) の自宅から約500mほどの距離にある、荒川 ( 現・隅田川 ) 沿いにあった元製材工場を借り入れ、それを改造し工場として使用することにした。試作第2号機の完成とおそらく近い1926年 ( 大正15 ) 7月に着工し、11月末に完成した。平屋の工場で、建坪50坪と100坪の空き地を準備した。

また、茂吉はこれに先がけ、11月3日に自宅に「写真植字機研究所」の看板を掲げていた。 次いで、11月末に完成した工場に「写真植字機研究所」の看板を掲げた。自宅を研究所とし、荒川沿いの建物を製作工場としたのだ。写真植字機研究所――のちの写研――がここに生まれたのである。[注4]

工場の監督には、主として信夫があたることになった。

  • 【茂吉と信夫】写真植字機研究所の誕生

    荒川 ( 現・隅田川 ) 沿いにあった、写真植字機研究所の工場 (「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926 p.8より)

  • 『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.15 によると、写真植字機研究所の工場は東京府下王子町堀ノ内292番地。これは下の写真の「梶原の渡し船場跡」看板に掲載された1935年 ( 昭和10 ) 当時の地図を確認すると、荒川沿い ( 現・隅田川 ) の梶原の渡し付近にあたる。写真は工場付近の現在の様子。工場跡地は現在、駐車場となっている。( 2023年4月2日撮影 )

  • 梶原の渡し跡に立てられた看板。( 2023年4月2日撮影 )

  • 梶原の渡し跡に立てられた看板の地図部分をアップに。「★現在地」の左側2つ目のところに「292」( =写真植字機研究所工場は東京府下王子町堀ノ内292番地 ) の数字が見える。( 2023年5月29日撮影 )

レンズという壁

石井家には、この年の9月に三女・裕子 ( ひろこ ) が生まれていた。母と自身の弟妹、そして妻いく、3人のこども。茂吉の妻いくが経営する神明屋が養うのは、大家族だった。

茂吉も信夫も、この時期、収入はいっさいない。研究費や材料費、工員の給料……すべては石井家のふところでまかなわれていた。茂吉はいつもカンカン帽をかぶっていたが、このころの彼は、冬でも夏でもおなじ帽子をかぶっていた。あたらしいものを買う余裕がなくなっていたからだ。[注5] しかし彼らの邦文写真植字機は、すでに印刷界の期待を集めている。いまさら後に退く選択肢はない。

実用機の完成には、まずなんといっても、実用化を可能にするレンズがなくてはならない。茂吉は「レンズ設計」に心を奪われていった。

(つづく)


[注1] 沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000 p.58

[注2] 松島徳三郎「写植で潮汐表」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.152-154 東京高等工芸の開校記念日が11月15日であることも明記されている

[注3] 「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926

[注4] 自宅に看板を掲げた時期は、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.15を参照。工場の着工、完成時期は森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.15を参照。自宅兼研究室の住所は『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』同ページによると東京府下王子町堀ノ内516番地。現在このあたりは都営住宅になっている。自宅研究室と工場の距離は約500mで、徒歩8分ほどだった ( 田久保周誉著、堀船郷土史を語る会編『平成増補版 堀船郷土史』堀船郷土史を語る会、2016 p.36、38、56も参照 )

[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.91

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000
「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926
田久保周誉著、堀船郷土史を語る会編『平成増補版 堀船郷土史』堀船郷土史を語る会、2016

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影