フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


ぴったりの組み合わせ

共同での邦文写真植字機試作機製作がはじまった。石井茂吉と森澤信夫のふたりは、王子の石井家で設計図面の作成や研究開発をおこない、また信夫は、機械製作を依頼している本所大島町の小林製作所にかよった。

信夫はすぐれたアイデアマンで、それをかたちにしていく器用さももっていた。これまでの見よう見まねのわずかな経験と、生来の勘のよさもあり、かなり手際よく事を運んでいた。しかしそれでも、専門の学校教育を受けていない信夫が書く設計図には、製図法の正則に反した部分があった。茂吉はこれにきめこまかくアドバイスと指導をした。

茂吉は、機械設計について一家言をもっていた。「計画の段階ではあらゆる可能性を意欲的にとり入れてよいが、具体的な設計の段階では実用性を重んじよ」である。既存ルールを無視した素人の無軌道さは、ときとして玄人には思いもよらないユニークなものを生み出すが、そのアイデアにこだわるとかえって混乱を招き、結果的にはよいものができないということだ。茂吉が終生もち続けた信念だった。

しかし、信夫が茂吉に一方的に教わるばかりの関係でもなかった。ふたりはまったくタイプが違っていた。これがよかった。

茂吉は凝り性だ。ひとつのことを粘っこくたんねんに追い詰めていくぶん、悩みすぎて切り換えの遅いところがあった。信夫は回転が速く、悩むより先に行動する。試作機の製作において壁にぶつかり別の方法を探すとき、信夫が次々とあたらしいアイデアを出して、道がひらけることもあった。14歳という年齢差のせいもあったかもしれないが、対照的な性格のふたりは、あたらしいものを生み出すのに、じつによいコンビだった。[注1]

3つめの特許

試作第1号機は、1924年 ( 大正13 ) に出願されたふたつの特許 ( 7月の第64453号、11月の第67702号 ) をそのまま形にしたものではなかった。基本的には第64453号を引き継ぎつつ、さらに実用性を高めるために、いくつかの大きな変更点が加えられた。これには、茂吉が邦文写真植字機の開発に本格的に加わったことの影響が感じられる。

試作第1号機の製作にあたり、ふたりは邦文写真植字機にかんする3つめの特許を出願した。1925年 ( 大正14 ) 8月11日に出願、1927年 ( 昭和2 ) 6月14日に特許となった第72286号である ( くわしくは特許情報プラットフォームを参照)。明細書を見ると、前回まで「発明者」は信夫のみだったが、このときから茂吉と信夫のふたりが「発明者」となっている。

本連載第23回と重複するところもあるが、機械の基本構造はつぎのとおりだ。

  • 正面図 (下、第1図) と側面図 (上、第2図)。邦文写真植字機に関する3つめの特許 (第72286号) の明細書 (特許情報プラットフォームより)

鉄製の台の上に文字盤が置かれ、これは手で軽く前後左右に移動することができる。文字盤は、ガラス板に数千の文字を配列したもので、文字部分を透明に、他の全面を黒色に焼き付けてある。

機台の最上部には暗箱が固定されている。暗箱の上半部は蝶番で開くようになっており、なかに写真フィルムを取りつける円筒が入っている。暗箱と文字盤の中間に、シャッター、レンズ箱、中空管がある。中空管の下端は細く角形になっていて、文字盤の文字が1文字だけ入る大きさになっている。

文字盤の下には電灯装置があり、文字盤を明るく照らしている。この明るく照らされた文字は、中空管とレンズを通って、暗箱内のフィルムに焦点を結ぶようになっている。通常はシャッターが閉じているのでフィルムには感光しないが、機械の右側にあるボタンを下に押すとシャッターが開き、50分の1秒ぐらいの露出でフィルムに文字が撮影される。

ボタンを押すと連結棒が引き下げられ、ボタンを離すと連結棒はもとの位置に戻る。この戻りの運動で歯輪が少し回転し、同時に暗箱内のフィルム胴も回転して、中空管の上端が次の文字を撮影する位置に合うようにする。文字盤を動かして必要な文字をつぎつぎと撮影していけば、フィルム面には一直線に文字が並んで写されるわけだ。

歯輪と連結棒との調整で、文字と文字の間隔を変えることができる。また、レンズ箱の上にあるハンドルを回すと、レンズ箱やシャッターを左右に動かすことができる。これによって行と行の間隔が調節される。

こうして撮影されたフィルムを暗箱から取り出して現像すれば、このフィルムから平版印刷 (オフセット印刷) をはじめ、グラビア印刷や亜鉛凸版印刷など、さまざまな印刷用の版をつくることができるのだ。

校正はこのフィルムの上でおこなう。フィルムの一部を切り取ったり貼りこんだりすることは簡単だが、誤字や脱字が多すぎる場合には、すべてを撮影しなおすしかない。校正に手間がかかるのは、致し方なかった。[注2]

では、試作第1号機は、最初の特許の内容とどのような違いがあったのだろうか。次回、くわしく見ていくことにする。

(つづく)


[注1] 『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969) pp.84-88

[注2] 杜川生「活字無しで印刷出来る機械の発明」『実業之日本』大正14年12月号、実業之日本社、1925

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
石井茂吉「写真植字機 光線のタイプライター」『書窓』第2巻第5号 、アオイ書房、1936年7月
「この人・この仕事 写真植字機の発明と石井文字完成の功績をたたえられた 石井茂吉氏」 『実業之日本』昭和35年4月1日特大号、実業之日本社、1960
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968
日刊工業新聞編集局『男の軌跡 第五集』にっかん書房、1987
杜川生「印刷界の一大革命 活字無しで印刷出来る機械の発明」『実業之日本』大正14年12月号、実業之日本社、1925
橘弘一郎「対談第9回 書体設計に菊池寛賞 写真植字機研究所 石井茂吉氏に聞く」『印刷界』1961年10月号 (日本印刷新聞社)
倭草生「恩賜金御下賜の栄誉を担った 写真植字機の大発明完成す ―石井、森澤両氏の八年間の発明苦心物語―」『実業之日本』1931年10月号、実業之日本社、1931
「邦文写真植字機殆ど完成」『印刷雑誌』大正14年10月号、印刷雑誌社、1925
「書体設計者はパイオニアの精神で……」『季刊プリント1』印刷出版研究所、1962.3

【資料協力】
株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影