フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
怒ることを忘れた子
石井茂吉は、〈怒ることを忘れて来たよう〉といわれるほど、静かな子どもだった。[注1]
石井茂吉、のちに写植機メーカー・写研を創業し、数々の石井書体を生み出すひとである。彼は1887年(明治20) 7月21日、東京府北豊島郡王子村大字堀之内字梶原で、石井家の長男として生まれた。荒川(現・隅田川)[注2] のほど近く、現在の東京都北区堀船町。「梶原」の地名は、いまでも都電荒川線の駅として残っている。王子駅前駅から三ノ輪橋方面に2つ乗ったところにある駅だ。
この付近は、荒川がおおきくS字を描くように流れて土地をうるおす農村地帯だった(一方で、何度も洪水に見舞われる土地だった)。石井家は、代々農耕をいとなみ、茂吉の父の代にいたるまで、十代続いた村一番の旧家だった。
梶原には1908年(明治41)から1961年(昭和36)にかけて、対岸の宮城村(足立区)との間をむすぶ渡船場があり、駒込の市場に野菜を出すための荷車の交通路としても利用された。石井家も、それより前の時期になるが、「神明屋」の屋号で5艘の舟を持ち、農耕のかたわら、埼玉の川口や綾瀬川沿岸の農家を得意先として、農産物や肥料を運搬する仕事をおこなっていた。
父の名は「又吉」、母は「たけ」。温和でやさしい両親だった。茂吉が生まれたとき、両親はすでに4人の子どもを養っていた。茂吉が生まれる前年にコレラで急逝した兄夫妻の子どもを引き取り、本家を継ぐ彼らが成人するまでの後見人となっていたのだ。茂吉は長男だったが、3人の兄と1人の姉がいるような環境で少年期を送った。
見よう見まねで文字を書く
茂吉は、7つ上の従姉の「こう」になついていた。幼いころから、小学生のこうが勉強する横で、石盤に石筆で見よう見まねで落書きをして静かに遊んだ。5歳ごろになると、未就学児でありながら、こうのかよう滝野川小学校まで毎日ついていくようになった。梶原堀之内の村社 [注3] ・白山神社(北区堀船3丁目)付近から滝野川小学校までは、地図で見ると2km弱ある。幼い茂吉はその距離を、こうについてかよった。
学校に着くと茂吉はいつも、こうの机の横の通路に座り、字をまねして書いたり、家から持ってきたお菓子をほおばったりしながら、授業が終わるのをおとなしく待った。就学前の子どもは茂吉のほかにも数人来ていたが、学校からとがめられることはなかった。しかし、なにぶん幼い子どもたちのことである。おとなしく授業を聞いていられるのは茂吉ぐらいのもので、たいていの子は途中で飽きてしまい、声を出したり音を立てたりしはじめ、あげくのはてには廊下や運動場に飛び出していってしまうのだった。
1894年(明治27) 4月になると、茂吉は正式に滝野川尋常小学校に入学した。彼はどの学科でもよい成績をおさめ、校長の相沢栄二郎が自慢するほどの生徒だった。外で遊ぶよりも家で本をひらいていることが多く、時折、近くの小川にどじょう取りにいくことがあっても、それは百姓の父が毎日かよう野菜市場で売れることがあるからで、遊びというよりは家業手伝いの一環だった。
1898年(明治31)春、尋常小学校を卒業した茂吉は、高等小学校に進学した。このころ、小学校は尋常科4年、高等科4年が義務教育となっていたが、一般庶民のあいだでは小学校に入れる家がまだ少なく、入学したとしても、尋常小学校を終えると見習奉公に出たり、家業に入ったりする子どもが多かった。しかし父・又吉は、成績のよい茂吉に農業を継がせるつもりはなかった。ゆくゆくは東京で商売をさせたい、それには高等小学校は出ておいたほうがよいと考えていた。
高等小学校に上がったころから、茂吉は弟の孫次郎と一緒に、野菜を入れた天秤をかついで王子の町を売り歩き、家業の手伝いをするようになった。父の野菜車の後ろを押しながら、野菜市場にもかよった。茂吉には、高等小学校に進学させもらったことへの感謝の気持ちがあったのだ。茂吉が本をひらくのは、家業の手伝いの合間のみになった。しかし成績は落ちることはなく、その秀才ぶりは、滝野川小学校の相沢校長の期待をますますふくらませていった。
校長先生の呼び出し
ある日、父は小学校に呼ばれた。相沢校長から、茂吉をぜひ中学に進学させるよう、すすめられたのだ。父にも茂吉にも、そんなつもりはまったくなかった。このころの中学校は、官吏か教育者、あるいは大金持ちの子どもが行くところで、百姓や商人になる者が行くものではないと思っていたのだ。又吉は断ったが、相沢校長は茂吉の才能がどうしてもあきらめきれず、担任の教師を何度も差し向けたり、父をたびたび学校に呼んで進学をすすめたりした。
茂吉の気持ちに変化が起きたのは、ある日のことだった。その日茂吉は、用事のあった父の代わりに野菜を荷車に積み、本郷の野菜市場に運んだ。道は平坦ばかりでない。いざ荷車を引いてみると、最初の坂道でもう、手に負えなくなった。
道行く人に助けられてどうにか運び終えたものの、茂吉はこのことをきっかけに、いかに自分が力仕事に向いていないかを痛感した。自分からは父に言い出せずにいたが、「中学に進みたい」という気持ちが、むくむくと茂吉のなかに芽生えた。
そんな茂吉の心境の変化を感じたのだろうか。しばらくすると父は急に、「入学試験だけでも受けてみては」と言った。1902年(明治35)、茂吉は原町(現・文京区白山)にある京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)の試験を受けた。一足飛びに第二学年に編入する試験だった。そうして見事、トップの成績で合格を果たしたのだ。
予想以上の結果に驚きながらも、父は茂吉に言い聞かせた。
「いいか、茂吉。この王子から中学校に通っている者は、3人しかいない。おまえが中学校に入って失敗でもすれば、村じゅうの笑いものになるだろう。よく心得てのぞむように。それに、家は百姓だから、学校から帰ったら、できるかぎり家業を手伝うこと。それだけの覚悟があるならば、中学校に行ってもよろしい」
石井家には、茂吉のあとにも小さな弟妹がたくさんいた。茂吉を中学にやるのは、経済的にも決して楽なことではない。厳しい言葉を投げかけながらも上の学校に進ませてくれる父に、茂吉は深く感謝するばかりだった。
(つづく)
◆本連載は隔週更新です。
[注1]『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969) p.8
[注2] 荒川は、江戸から明治にかけて洪水の頻発する河川だった。なかでも1910年(明治43)の洪水は大災害となり、これをきっかけに治水対策として、昭和初期までかけて荒川放水路が建設された。1960年(昭和35)の河川法の見直しにより、この荒川放水路が「荒川」の本流に、もと荒川が「隅田川」となった。(荒川放水路変遷誌編集委員会『荒川放水路変遷誌』国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所調査課、2011) p.11
[注3] 白山神社はおそらくは豊臣秀吉の関東平定ごろの創設と思われる。1929年(昭和4)より、梶原堀之内村の村社に昇格した。(田久保周誉『堀船郷土史』編集兼発行人 牧田平次郎、発行 堀船郷土史刊行会、1952 / 復刻版:発行人 田久保海誉、発行 真言宗豊山派 福性寺、2012) p.27
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(写研、1975)
『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)
荒川放水路変遷誌編集委員会『荒川放水路変遷誌』国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所調査課、2011)
田久保周誉『堀船郷土史』(編集兼発行人 牧田平次郎、発行 堀船郷土史刊行会、1952 / 復刻版:発行人 田久保海誉、発行 真言宗豊山派 福性寺、2012)
株式会社写研
※特記のない写真は筆者撮影