フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
住まいを探して
関東大震災の被害により、東京・梶原 (現・北区堀船町) にあった石井茂吉の実家は無残にも潰れてしまった。京橋の星製薬本社で採用面接を受けた直後だった茂吉は、梶原まで歩き、母と弟妹を保護すると、次弟・孫次郎の家に向かった。
幸い、孫次郎の家はぶじであった。茂吉は孫次郎の家に母ら3人をあずけて、潰れてしまった家の後始末に取りかかった。なかなか進まぬなか、不通となっていた汽車が運転を再開したと知ると、東京から避難するひとびとに混ざって汽車に乗り、妻・いくと千恵子、圭吉の2人の子が待つ播磨 (兵庫県) に戻った。工場長に星製薬の採用試験に合格したことを告げ、辞表を提出すると、神戸製鋼所をあとにした。12年間勤めた職場を去る感傷にふけるいとまもなく、妻子を連れてのとんぼ返りだった。
母たちがいる孫次郎宅に妻子を託すと、茂吉はふたたび潰れた家の後始末と再建に取りかかった。しかし、数十万の家屋が被害にあった大地震の後である。大工の手が足りないだけでなく、木材や釘など、あらゆる資材が払底していた。あちこちに焼けトタンのバラックが建てられていたが、どこも本建築にかかれない様子だった。
「1日もはやく、家を再建しなければ」。茂吉は焦りをおぼえたが、どうにもできなかった。
ならば、と一時しのぎの借家を探しはじめたが、気に入る物件がなかなか見つからない。ひと月ほどして、ようやく大井金子町 (現・品川区西大井2丁目の一部と4丁目あたり) [注1] に仮住まいを見つけ、妻・いくと娘の千恵子、息子の圭吉、そして母・たけ、妹・百合子、弟・秀之助とともに7人で移り住んだ。
秀之助はこのとき小学5年生。茂吉とは8人兄弟の長男と末男で25歳離れており、秀之助が生まれた年に茂吉は結婚して家を出ていた。このため、2人が一緒に暮らすのは、これが初めてのことだった。秀之助は兄弟のなかでもっとも茂吉に似ており、初対面のひとにはよく親子にまちがえられたものだった。[注2]
その場しのぎの仕事
大井金子町の住まいが整い、五反田にある星製薬の工場に茂吉が通いはじめたのは10月もすこし入ってからのことだった。1887年 (明治20) 7月21日生まれの茂吉は、すでに36歳になっていた。東京帝国大学を卒業してすぐに勤めた神戸製鋼所での12年を経て、初めての転職だった。
茂吉はあたらしくオートバイを買い、西大井駅近くの自宅から五反田の星製薬まで、それで通勤した。新天地での新しい仕事を前に、茂吉ははりきっていた。
彼の仕事は、工場の機械関係全般の管理と保守だった。茂吉と同じ求人広告を見て先に入社していた加藤完三 (加藤も東京帝国大学出身) とふたりで、星製薬の工場に並ぶ欧米の最新機械を見ることになっていた。
ところがいざ入社してみると、茂吉の想像とはずいぶん違っていた。組織はあるのだが、こまかな仕事の分担があいまいだった。具体的な目標に向かって工場の機械の導入や開発が進められているわけではなく、1922年 (大正11) 夏に星社長が欧米外遊で買い入れた機械類も、「製品コストを引き下げるために、工場の高度の機械化を実行し、英米仏独の諸国から最優秀の各種機械を購入して、国内はもちろん、東洋最高の機械設備をもつ製薬工場を完成させる」という理想を掲げてはいたものの、計画的に考えられたものとは思えなかった。
自働式の薬品包装機や錠剤機械、チューブ製造機など、さまざまな機械が工場に据えつけられていった。茂吉と加藤は、星が買いつけた機械が横浜の埠頭に届くたびに引き取りに行ったり、組み立てたりする毎日で、突発的に発生する仕事に取り組むばかり。[注3] ふたりがもっとも大切だと考えていた本来的な作業――現状を把握して問題を発展させ、次の新しい開発計画に結びつけるといった仕事は無視されていた。これでは、単なる現場監督のようなものだ。
そんななかで、ある日ドイツのMAN社 [注4] から、大型活版輪転印刷機が届いた。といっても、約30箱に分解された状態だ。星は薬の効能書や、かねてから構想していた『家庭新聞』というPR紙をこれで印刷するつもりらしい。しかし、ここは製薬会社なのだ。印刷機にくわしい者は、だれもいない。「これでは、田を耕す百姓が精米機までもつようなものではないか」。星の無鉄砲さに、茂吉は呆れた。
この印刷機をめぐり、急遽、主任会議がひらかれることになった。会議には、星社長、東京帝国大学出身の高級機械技師である茂吉と加藤、蔵前にあった東京高等工業学校 (現・国立東京工業大学) 出身の吉川国広と下山田秀夫を中心に、工場の主だった者が4、50人集められた。そこには、星社長に声をかけられた、22歳の森澤信夫も出席していた。
(つづく)
[注1] 『住居表示旧新対照表』(東京都品川区、1964) p.355 より/国立国会図書館デジタルコレクション(2023年2月25日参照)
[注2] 石井秀之助「愚弟の見た賢兄」『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965) pp.224-227
[注3] 工場の機械設備については、大山恵佐『努力と新年の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949 p.147
[注4] 世界有数のオフセット輪転印刷機メーカー、ドイツのマンローランド・シートフェッド社 (1871年設立) のことか
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
『追想 石井茂吉』(写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965)
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245
星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967
大山恵佐『努力と新年の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949
【資料協力】
株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影