フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
いそがしい一日
1923年 (大正12) 9月1日土曜日。
その日、星製薬の社長・星一の予定は、朝から立てこんでいた。
東京・京橋の星製薬本社ビル。7階建ての最上階に、社長室はある。星が出社すると、五反田工場勤務の森澤信夫が訪ねてきた。
「先生、おはようございます」
信夫は、調査のため星に命じられた大阪出張を終え、その報告に来たのだ。
「森澤くん、ご苦労だったな」
ひととおり報告を終えると、信夫は五反田に戻ると言って、社長室をあとにした。
星にはその後、採用面接が控えていた。
前年の欧米外遊の際に星が買いつけた最新鋭の各種機械が、工場に次々と届いていた。その操作や保守をおこない、また、自社独自の機械を開発するために、星は高級機械技師の求人広告を出していた。
春に出した広告によって、初夏にひとり、加藤完三という機械技師が入社していた。そしてもうひとり、「これは」と星がおもった人物が石井茂吉だった。東京帝国大学機械工学科を卒業した後、神戸製鋼所に勤めている。しかも、星が人材を求めて相談した東京帝国大学の加茂正雄教授の推薦つきだ。そうとなれば、筆記試験などは必要ない。面接のみで判断すればよいだろう。星はそう考え、茂吉の到着を待った。
面接の直後に
午前10時過ぎか11時ごろか。おそらくそれぐらいの時間に、石井茂吉は京橋の星製薬本社を訪ねた。7階建てのおおきなビルだ。採用試験は面接のみで行なわれるという。
茂吉は、星一の面接を受けた。
提出した応募書類の内容について、星から多少くわしい質問があったが、「ぜひ、うちに来てくれたまえ」とその場で採用が決まった。東京帝大を卒業していることもそうだが、なんといっても神戸製鋼所12年の実績がものをいった。
これで東京の母のもとに戻れる。
茂吉はほっとして、星製薬の玄関を出た。正午ちょっと前だった。実家に戻ろうと、目の前にある京橋交差点の停留所で、東京市電 (路面電車) が来るのを待った。すると突然、聞いたことのない異様な地鳴りがしてきた。かとおもうと頭上の電線が激しく波打ち、あたりの家屋がおおきく揺れ、みるみる倒れはじめた。地震だ。道路にも地割れがひろがってゆく。
頭上からはガラスや屋根瓦の破片が降ってくる。茂吉はかぶっていたカンカン帽 [注1] でそれを防ぎながら、揺れつづける星製薬の7階建てのビルを見上げた。ビルが崩れる様子はない。
しかし、都電をはじめ、交通機関はすべて途絶えてしまった。余震はつづいている。茂吉は梶原 (現・北区堀船町) の実家まで、約10kmの道のりを急いだ。あちこちで火事の炎が上がり、強い風にあおられて、燃えひろがっていた。地割れによって水道管は破裂し、消火が進まない。そんななか、茂吉はなんとか実家に着いた。母や弟妹はぶじだったが、家は無残につぶれていた。
「なんということだ……」
1923年(大正12) 9月1日午前11時58分に首都圏を襲った、マグニチュード7.9の大地震。関東大震災だった。
茂吉は、次弟・孫次郎の家に母と弟妹をつれていった。孫次郎の家はぶじだった。
揺れる窓辺
午前中に京橋本社で星社長への大阪出張報告を済ませた森澤信夫は、昼前に五反田の工場に戻った。「すこし早いが、まもなくお昼だから、めしを食べよう」。そう思って食堂に行った。
星製薬では、社員食堂で給食を出していた。信夫が行くと、すでに昼食の準備が進んでおり、盛りつけたドンブリめしが並んでいた。信夫はドンブリをひとつとってベンチに腰をおろし、やかんからお茶を注いだ。めしを口に運ぼうとしたそのとき、テーブルがおおきく揺れ、お茶がこぼれた。続いて床が持ち上がるような感じがし、壁が揺れた。同時に、すさまじい崩壊音が耳に響いた。
「地震だ!」
だれかが叫ぶと、食堂にいた10人ほどの工員が我先にと外へ飛び出していった。
信夫も腰を浮かせかけてふと、「これは下手をすると、めしにありつけなくなるぞ」と考えた。
社員食堂は2階にあった。信夫は、いまにも砕けそうにひび割れたガラス窓を押しあけ、いつでも飛び出せるよう窓辺に腰かけると、工員たちがひしめきあう広場を見下ろしながら、めしを食いはじめた。食堂に残っているのは彼だけだ。
広場に避難した工員たちが、窓辺でドンブリめしをかきこむ信夫の姿を見て騒ぎだした。工場長の星三郎は、大声をあげた。
「おーい、森澤くん。あぶないぞ! なにをしとるか。早く降りてこい!」
「すぐに行きますよ。それよりも、めしの用意がしてあるから、みなさんも食べたらどうですか」
「馬鹿言え! 危険だろう。とにかく出てこい!」
やりとりをしているうちに食べ終えたので、信夫は広場に降りた。工場長は激怒し、「危ないことをするんじゃない!」と何度も言った。
鉄筋コンクリート4階建ての工場の建物は、清水建設が入念に設計してつくっただけあり、大地震にもびくともしていなかった。
「しかし、京橋の本社ビルは大丈夫なんだろうか? 星先生は無事なのか」
信夫は心配になり、工場長に「だれか社長に連絡をつけましたか?」と尋ねた。
「この騒ぎで、そんなゆとりはない」
「それはいけない。社長の安否の確認が先でしょう。だれも行かないのなら、私が行きます!」
信夫は、以前星社長にもらった愛用のオートバイに飛び乗り、京橋の本社に向かった。[注2]
(つづく)
[注1] カンカン帽:麦わらを堅く編んで作った、男子用の夏の帽子の俗称。いただきが平らで周囲につばのあるもの。大正中期から昭和初期にかけて流行した。(小学館国語辞典編集部『精選版 日本国語大辞典』小学館、2006 より)
[注2] 今回の本稿は、石井茂吉関連についてはおもに『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969) 、森澤信夫関連については、馬渡力 編『写真植字機五十年』(モリサワ、1974)、産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』(産業研究所、1968)をもとにし、星製薬の様子は星新一『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967)から内容を補ってまとめた
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245
星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967
【資料協力】
株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影