堀高明代表取締役社長とともにスターフライヤーを立ち上げたひとりとして、スターフライヤー創業の歴史をここに記していこうと思う。前回、「他にない」制服や機内サービスなどの選定に触れた。そして話は就航日に移る。
キャプテンの出発サインに感動
就航日の2006年3月16日の羽田空港は曇り空。北九州空港は雨の寒空となった。羽田発の便の方が出発時刻が早いため、実質的にはこちらが初便になる。堀社長とは「月並みな就航式典はやめよう」と言っていたのだが、北九州側は地元であり市役所、産業界(商工会議所)などお世話になった関係者の方々も多いので、「皆さんとのテープカットをしないわけにはいかない」という社長判断となった。
一方、羽田では初便で北九州に戻られる末吉興一・北九州市長を主賓とし、ご挨拶をいただいた後に、機体デザインなどを担当してくださったフラワーロボティクスのロボット「Posy」から花束贈呈、という式次第とした。
筆者自身もこの時、初めて末吉市長にスターフライヤーの構想をプレゼンした20枚足らずの企画書を片手に、就航の挨拶をさせていただいた。就航前に使っていた機関投資家向けの企画書が50枚を超えていたことを考えると、「随分簡単な書類で説得にうかがったんだなぁ」といまさらながら冷や汗を感じたものだ。就航式典では参加者や報道陣からも大拍手。そして搭乗開始、離陸となった。
最後の乗客がゲートを通過された後、スタッフたちと地上に降りて飛行機のランプアウト(ブリッジを離れること)を見送った。漆黒の機体が自走を始めた時、コックピットの窓からキャプテンが左手を握って掲げ「無事行ってくるぞ」と語りかけてきた。飛行機に手を振りながら、この2年間にあったいろいろなことが断片的に思い出され、大きな感動を覚えた。
凱旋する王監督と川崎選手を乗せる
3月の2週間は初就航の話題性もあり、70%を優に超える利用率を保つことができた。首都圏での話題性や知名度の低さはいかんともし難かったが、3月24日に事件が起きた。野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した日本代表が夜、成田に帰国し、記者会見を終えて羽田に移動した王貞治監督と川崎宗則選手が、翌日の練習に参加するためにスターフライヤーの深夜便で北九州に帰ってきたのだ。
午前1時過ぎに到着した王監督を多くのファンが出迎えた光景は全国のテレビで報道され、「何で夜中の1時に飛行機が飛んでるんだ? 」「あの黒い飛行機は何? 」と、図らずもスターフライヤーの存在が全国に流れることになった。また、他のエアラインからも「視察」をいただいたようだ。
ある大手会社のCAの方が搭乗レポートを書かれたことを知人から聞いたのだが、「機内の風景がとても同じエアバス機とは思えなかった」「行こうとしている道が我々とは違うようだ」など、ある意味ありがたい言葉があった。
そんな中、「トイレだけは何の変哲もなく、妙にほっとする」とのコメントがあったそうで、ここに思いを馳せなかったことを非常に後悔したのも事実である。後日、メーカーとのタイアップで、高級な「黒いトイレットペーパー」を期間限定で装備し大変話題になったのだが、このことへの意地も少しあったかと思う。
ANAとのコードシェアの遅れが響く
4月に入り、事業は厳しい状況となった。日中帯はまずまずの数値だったのだが、早朝深夜帯は予想に反し芳しくない状況で、利用率が低迷していた。地元タクシー会社と提携し、主要地域への1,000円タクシーを始めたり、早朝深夜便の割引率を上げたりと、地元企業へのいわゆる"ドブ板営業"もしていたのだが、事態はさほど好転しなかった。
福岡側の需要はそれなりに掘り起こせていたものの、当初から懸念していた首都圏からの需要が全く伸びなかったのだ。最大の誤算はANAとのコードシェアの遅れだった。
北九州はもともとJAL(旧JAS)の独占路線だったので、ANAにしてもコードシェアで直行便を開設できればネットワークや法人営業などの対抗上メリットがある。スターフライヤーにすれば、一定数の買い取りにより利用率の底上げが見込める(両社の顧客層が違うため)。つまりウインウインの効果が期待できたので、双方とも前向きに議論を進めていた。
しかし、就航前のハイレベル交渉で、買い取り便、価格、座席数なので予想外のぶつかり合いが生じてしまい、相手の逆鱗にふれることとなったのである。我々の方の交渉者にも「元JALでやり合った相手に対し、臆することはない」というプライドのようなものがあったのかもしれない。すぐに仕切り直しも考えたが、しばらく冷却期間を置いて交渉を再開しようということになり、半年以上の遅れが確定的となった。
就航初年度は20億円を超える赤字に
2006年度は後半も営業施策はあれこれ講じたものの深夜便が足を引っ張り続けたこともあり、11月には羽田着深夜便をやむなく減便で対応した。こうして2006年度は20億円を超える赤字となった。
しかし堀社長とは、「ANAとのコードシェアは一方的に助けてもらうだけのものではなく、双方メリットが大きなため早晩実現できる。自社利用率が10~15%安定すれば営業・運賃施策の柔軟性も増し、収益化はできる」と踏んでいた。だが、新興会社にとっては損益計算書よりも現金が問題だ。2007年度を迎えるにあたってどこまで資本として集めたキャッシュが持つのか、悪条件を想定した計算に入らざるを得ず、新たな資金繰りを再開したのだ。
そして、相前後して日本の航空業界の将来を動かすような事案が持ち上がった。しかし、これは幻と潰える。これはまた次回、お話したい。
※本文に登場する人物の立場・肩書等は全て当時のもの
筆者プロフィール: 武藤康史
航空ビジネスアドバイザー。大手エアラインから独立してスターフライヤーを創業。30年以上におよぶ航空会社経験をもとに、業界の異端児とも呼ばれる独自の経営感覚で国内外のアビエーション関係のビジネス創造を手がける。「航空業界をより経営目線で知り、理解してもらう」ことを目指し、航空ビジネスのコメンテーターとしても活躍している。