明けの楽しみは"どんど焼き"
小正月行事のひとつとして、全国のあちらこちらで毎年1月14日(または15日)に開催される左義長。もともとは道祖神の祭りで、田畑や浜辺で竹を組み合わせて簡単な塔を作り、そこに地域の人々が正月飾りなどを持ち寄って燃やしたのがはじまり。この火で焼いた団子や餅を食べると、無病息災で1年間過ごすことができる、と考えられているそうだ。ちなみに東京では江戸時代に火災防止のため禁止されて以来、左義長は行われていない。
ここ大磯や二宮では、左義長ではなく"どんど焼き"という呼び方の方が一般的だ。お年寄りの中には、昔ながらの言い回しで、左義長をセエトバレエ、道祖神をセエノカミサンと呼ぶ人もいる。
晩年を大磯で過ごした劇作家の高田保は、昭和23年(1948年)から東京日日新聞(現在の毎日新聞)に連載した随筆『ブラリひょうたん』の中で、このようなことを書いている。
「大磯の左義長といえば以前は有名なもので、その火が対岸の房総半島からはっきり見られたそうだ。その火を囲んで素裸になった漁師たちがいろいろなことをやる。原始的な味があって、ひとつのスペクタクルになっている。島崎藤村はこの左義長を見るために来たのが縁で、大磯に住むことになったそうだ」。
高田保の随筆はかなり人気が高かったそうなので、この文章をきっかけに、町外からの見物客もずいぶん増えたことだろう。その後、大磯の左義長は、昭和32年(1957年)に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、平成9年(1997年)には国の重要無形民俗文化財となった。
浴場にずらりと9つの塔が出現
2008年の今年は、夜だけでなく昼の風景も見学することにした。曇り空に覆われた午後、大磯の左義長の舞台となる北浜海岸(=大磯海水浴場)に到着。大磯の左義長では海岸に近い9つの地区が参加するため、正月飾りを燃やす塔は今年も9つ立てられている。
このサイト(伝統的な名称はセエト)と呼ばれる塔の組み立ては、毎年14日の7時前からスタートする。まず長さ20m近い竹の先端に、色とりどりの紙の吹き流しや鎖のようにつないだ紙の輪、書き初めなどをくくり付ける。そして砂浜に穴を掘って竹の根元を埋め、縄で四方からしっかり固定。
この竹を支える土台を作るために、松の木や正月の門松などを周囲に並べて、手作りの注連飾りでぐるぐる巻きにする。最後に神棚から持ってきたダルマを紐でつなげ、ネックレスのように飾ればサイトが完成。ここまでの所要時間は、およそ3時間程度だという。
各サイトの脇には、それぞれの地区の道祖神が置かれ、カップ酒やカラフルな団子が供えられていた。波打ち際の砂浜に、いきなり道祖神の石碑が立っている風景は、何となく非日常的で不思議な気分になる。
大きな紙袋を持った人たちが、自分の地区のサイトを続々と訪れて、お札や門松、注連飾り、書き初めといった正月飾りやダルマをサイトの足下に置いていく。そうしてサイトはさながら血の通った生き物のごとく肥大化し続けていた。
一旦、帰宅して休憩し、左義長がはじまる19時前に再び北浜海岸へ。防波堤に上がって、海越しに浜辺を眺めることにする。太鼓の合図とともに、9つのサイトが同時に燃えはじめた。火を点ける方角は、その年の恵方からと決められている。2008年の場合は"南南東"からだ。サイトは燃えている途中で倒されることになるのだが、その際に倒す方角も恵方となる。
防波堤から写真を撮った後、浜へ降りてサイトの近くへ。風に乗って飛んでくる火の粉などまったく気にせずに、老若男女が木や竹を火に向けて差し出していた。その枝の先には、食べれば無病息災の団子が刺さっている。物干し竿のような長い竹を持ち込み、火の遠くから怖々と焼いている人もちらほら。
大磯ならではの"やんなごっこ"とは?
さて左義長は全国にあれど、なぜ大磯の左義長が国の無形民俗文化財であるのか。それは、ただの団子を焼く左義長ではなく、クライマックスに"やんなごっこ"が行われるから。
高田保が言うところの「その火を囲んで素裸になった漁師たちがいろいろなことをやる。原始的な味があって、ひとつのスペクタクルになっている」という部分にこそ、大磯の左義長ならではの魅力があるわけだ。
"やんなごっこ"とは、簡単に言ってしまえば「疫病神を追い払うための儀式」で、小さなお宮を載せた長さ3mほどの木製ソリが使われる。お宮の中には疫病神が封じ込められていて、ソリと一体化するように綱を編んでつながれている。
この毎年新しく作られるというソリで"やんなごっこ"を行うのは、各地区で選ばれた3~5人の男性たち。今回は気温3度というかなり寒い夜だったが、全員が白ふんどし姿。彼らはまず、ソリにくくり付けられたお宮の部分を、海に浸けたり浜辺で引きずったり火であぶったり踏みつぶしたりして、疫病神退治のために徹底的に壊す。
見事に疫病神を征伐した男性たちは、そのソリに乗り、地区の人々に「よいさ! よいさ! 」と綱をひかれて、サイトのある浜辺からゴールの神社を目指す。木のソリには車輪も何も付いていないから、まさにズルズルと引きずる感じなのだが、道路の凸凹に引っかかったり、細い道の向こうからほかの地区のソリがやってきたりして、行進は途中で何度も止まってしまう。
すると、ソリに乗った男たちは、止まる度に伊勢音頭(左義長音頭)などを歌う。歌わなければ前に進んではいけないのが"やんなごっこ"の決まりらしい。付き添いの仲間は一升瓶を抱えている。しんしんと冷え込む夜ゆえ、"やんなごっこ"にはときどき御神酒という燃料の補給が必要なのだろう。
浜辺を出発して、1時間ほどかかっただろうか。それぞれの地区にある神社へ入って、"やんなごっこ"は終了する。ぼくが後ろから付いていったソリの男性たちは、最後に神社の境内で世話人らしき人物を胴上げしていた。その後、豆腐を食べて酒を飲むシメの儀式があるらしいが、そこまでのぞくことはできなかった。
左義長見物を終えて何か食べて帰ろうと思ったが、20時過ぎだというのに町の中心部はすでに真っ暗だった。大磯の飲食店はもともと月曜日に休むところが多いのは知っているけれど、祝日なんだし左義長で観光客も来ているのだから営業すればいいのに……。しかし、そんなマイペースな町だからこそ、素晴らしい左義長の伝統がこうして大切に守られているのかもしれない。