タイから東京、そして小田原へ
ぼくと小田原動物園の付き合いは、もう30年以上になる。東京から二宮町に引っ越してきたばかりで、まだ友達ができなかった頃、父親はよく小田原城址公園内にあるこの動物園へ連れて行ってくれた。小学校に入って最初の遠足も、たしかこの動物園だった。小田原城の掘にかかった赤い橋を渡り、石段を登りきったところにそびえる城門をくぐると、天守閣をバックに小さな動物園が姿を現す……そんな情景は、ぼくが子供のころからほとんど変わっていない。
当時も今も、動物園の中心にあるのはインドゾウのウメ子が暮らすゾウ舎だ。コンクリートの建物の前には、半円形の広場が設けられ、そのまわりは空堀(水の入っていない掘)で囲まれている。いわば脱走防止用の掘なので深さ約1.6mもあるのだが、ぼくが中学生だった昭和56年(1981年)に、ウメ子がここに転落して大騒ぎになったことがあった。おそらく下に落ちたエサを取ろうとして転落してしまったのだろう。どうしてなのかわからないが、このエピソードは妙にハッキリとおぼえている。
ウメ子は昭和25年(1950年)、3歳(推定)の時にタイから来日したそうだ。この年に小田原城址公園で行われた「小田原こども文化博覧会」合わせて、小田原動物園が開園。その目玉が、1頭のインドゾウだった。市民から名前を募集し、最終的には小田原市の花である梅にちなんで"ウメ子"と名付けられた。小田原動物園にはゾウの飼育経験者がいなかったため、入国後のウメ子を一時預かっていた上野動物園のゾウ飼育者がひとり、ウメ子に連れ添ってやってきたそうだ。
ウメ子は瞬く間に小さな動物園の人気者となり、関東における数少ない"天守閣を持つ城"として知られる小田原城址とともに、小田原の観光業に大きく貢献した。
我が家は親子2代でウメ子ファン
ウメ子は長らく動物園のアイドルとして生きてきたのだが、最近地元では静かな「ウメ子を見に行こうブーム」が再び巻き起こっていた。その理由はただひとつ、ウメ子が10月16日に還暦を迎えたから。人間ならば、おそらく100歳前後。飼育されたインドウゾウの寿命は60歳くらいと言われているので、ウメ子はもはや単なる長寿を越えた"超寿"の世界へ足を踏み入れている。そんなウメ子をみんなで祝ってあげようよ、という気運がじわじわと高まっているわけだ。
地元では「ウメ子」あるいは「ウメ子さん」と呼ばれることが多いようだが、うちの娘は「ウメちゃん」と呼ぶ。小田原へ遊びに行くと必ず「どうしてウメちゃんには会わないの? 」ということになる。彼女も来年から小学生になって、父親と同じようにあの動物園を遠足で訪れるのか……。親子2代に渡るウメ子との関わりに思いを馳せると、何だか不思議な気分になる。
ウメ子の誕生日である10月16日、ぼくは小田原動物園に行ってきた。ウメ子は相変わらず大きかった。今春見たときよりも大きくなっているように思えるのは、いくらなんでも気のせいか。小田原市の発表している資料によると、かつて小田原へやって来たころのウメ子は、体長1.2m、体重450kgだったが、今では(鼻2m、尾1mを除いて)体長3m、体重約3t。高齢ながら歯はほぼすべて揃っていて、稲ワラやジャガイモ、サツマイモ、ニンジン、キャベツ、果物などを毎日60kg前後はたいらげるそうだ。
年老いたゾウは足が衰えて寝てばかりいるようになると、自分の体重で内臓を圧迫して体調を崩してしまうというが、ぼくの見るかぎり、ウメ子はまだまだ元気に歩いていた。それどころか、水飲み場の水をさりげなく鼻の中に仕込み、見物人に近づいて水をかけていた。本気で怒る人もいるけれど、もちろんウメ子のいたずらだ。ここまで無邪気な60歳、人間だったら少々問題かもしれないが、ゾウならば許される。
動物園のために、もうひとがんばり!
60歳のウメ子は日本で最高齢のゾウなのかといえば、残念ながら日本一はほかにいる。兵庫県神戸市にある王子動物園の諏訪子(すわこ)。こちらは何と64歳。ちなみにウメ子も諏訪子もインドゾウだ。
そして、ウメ子と同じくらいの年齢のアジアゾウが、井の頭自然文化園で暮らしているはな子。実はこのウメ子とはな子は、昭和25年(1950年)の一時期、上野動物園で同じ釜のメシ、いや、同じオリのエサを食べていた。そんな2頭のゾウがいずれも長生きしているのだから、運命的なつながりを感じずにはいられない。
さて、還暦祝いを兼ねたウメ子の誕生パーティーは、誕生日の10月16日ではなく、たくさんの参加者が集まれる土曜日、10月20日に開催される。11時からウメ子の写生会が行われ、14時になったら、地元豆腐店の作ったウメ子の大好物"おからのバースデイケーキ"がプレゼントされるそうだ。案内チラシには「歌ってウメ子をお祝いしよう! 」と書かれているので、もしかしたらケーキを食べるウメ子を囲みながら、みんなで"ハッピーバースデー"を歌ったりするのだろうか。
この小田原動物園、これまでに何度も閉園の危機を乗り越えてきたが、年々規模が縮小し、動物たちの数は減りつづけている。鳥やウサギの小屋も姿を消し、あとはニホンザルやハナジカなどがわずかに残されているのみ。もしウメ子がいなくなったら、今度こそ閉鎖されてしまうというウワサも根強い。つまり、すべてはウメ子次第。
ぼくは60歳になったばかりのウメ子の姿を見つめながら、心の中でつぶやいた。動物園が大好きな子供たちのためにも、あと10年、できれば40年くらいがんばってください、ウメ子さん。