和洋グルメ満載の料理小説が大ヒット
平塚市ゆかりの偉人のひとりに、村井弦斎という作家がいる。文久3年(1863年)、愛知県豊橋市に生まれた弦斎は、創立したばかりの東京外国語学校を中退後にアメリカへ留学、帰国後に新聞記者として活躍しながら小説も手がけた。そして明治36年(1903年)、報知新聞での連載を経て出版したのが、小説『食道楽(しょくどうらく)』。弦斎がちょうど40歳になる年だった。『食道楽(しょくどうらく)』は主人公の恋愛物語に、600種以上にも及ぶ料理の話を織り交ぜた、今の世で言うならばマンガ『美味しんぼ』風のストーリーが話題を呼び、当時しては驚異的な30版10万部を越えるベストセラーとなった。
まだ珍しかった西洋野菜や肉料理などの作り方がわかりやすく紹介されており、巻末には付録として食材の情報なども掲載。単なる小説としてだけではなく、台所で開けば料理本、実用本としても役立つという不思議な本だった。ちなみに『食道楽』の一部は、『ヤムヤムタウン』の「名著復刻図書館」にて読むことができる。
弦斎はこの『食道楽』で得た莫大な印税で、明治37年(1904年)、平塚に広大な屋敷を構えた。明治33年(1900年)ごろから大磯や小田原でも暮らしていたというから、このあたりの海辺がずいぶん気に入っていたのだろう。およそ1万6,400坪の敷地には、菜園や果樹園、温室などが広がり、和洋さまざまな食材を自給できるようになっていた。牛や豚、山羊、ウサギのいる畜舎、鶏舎まであったというから、さながらノアの方舟か。
弦斎は東京から一流料理人を呼び寄せて、選び抜いた食材を使った料理で客人をもてなし、まさに"食道楽"な日々を送った。しかし、やがてそんな生活に飽きてしまったようで、グルメとはかけはなれた「断食」や「木食(木の実や草だけを食べて修行すること)」の研究と実践に夢中になってしまう。時には1カ月間もの断食に挑戦し、また時には山中で穴居生活をしながら仙人のように草木を食べ、しまいには虫などを生のまま食べて過ごし、そうした体験記を本や雑誌で次々と発表した。
その過激な生き方は残念ながら、世の中に受け入れられなかった。かつてのベストセラー作家は文壇からも変わり者扱いされ、昭和2年(1927年)に平塚の屋敷でこの世を去った。
約100年前の料理が現代の平塚によみがえる
現在、弦斎の屋敷はもう残っていないが、その跡地の一部は村井弦斎公園として近隣住民に利用されている。黒松が美しく連なるこの公園で、毎年9月下旬(または10月上旬)に開催されているのが「村井弦斎まつり」だ。
公園も祭りの規模も、決して大きくはない。平塚といえば7月上旬に4日間で280万人(2007年度データ)を動員する七夕祭りが有名だが、こちらは、弦斎ファンや近隣住民が集まるこじんまりとしたイベントだ。まず弦斎文学碑にお茶と和菓子が供えられた後、この作家の好きだった箏や尺八、三味線などが演奏されるほか、屋敷の菜園で栽培されていたいちご(当時はまだ珍しかった)にちなんだ「いちご飴つかみ取り」、弦斎に関する書籍の展示販売などが行われる。
祭りの目玉は「村井弦斎の会」を組織する地元平塚の飲食店が、『食道楽』に登場する膨大なレシピの中から選んだ料理を再現する「競作弦斎弁当」。前回は4つの飲食店が参加した。例えば、2006年に「鳥保 貴柳庵」という割烹料理店が作った1,800円の弦斎弁当は、以下のような内容だ。
鯛の雀寿司(秋附21) 鮎の甘露煮(秋106) 南瓜の蒸し物(秋99) 柿なます(冬28) お多福(春68) 栗の含ませ煮(冬22) 牛蒡の柔らか煮(春249) 蓮根の白煮(春250) さわらの照焼き(夏90) そばのケーキ(秋90) 松茸ご飯(秋附10)
ウェブサイト「平成18年度村井弦斎まつり」より引用。料理名のあとのカッコ内は、柴田書店版『食道楽』の巻名を表し、「秋106」は「秋の巻184ページ」という意味。
この何ともおいしそうな弦斎弁当は、「村井弦斎まつり」のためだけに考えられたものなので、当日公園へ行かなければ手に入らない。第8回となる2007年の開催日は9月29日。今から楽しみにしておこう。
弦斎カレーと弦斎カレーパンを食べてみた
さて、平塚にはいつでも気軽に食べられる弦斎フードがある。まずは、カレー専門店を含む市内のレストランが、2000年に復活させた弦斎カレー。『食道楽』にはイギリス風、インド風など7種類のカレーが紹介されているが、そのまま再現してみたところ、スープに片栗粉を溶いたような、あまりおいしくないユルユルのカレーになってしまったそうだ。そこで、各レストランは工夫を重ね、弦斎レシピを基本にして現代人の味覚に合うようにアレンジし、新たなる弦斎カレーを生み出した。
しかし、開発から7年が経過した今、弦斎カレーがメニューにあるレストランは減っているという噂だ。ぼくはこれまで弦斎カレーの話をあちこちで聞いていたのに、実は一度も口にしていなかった。このまま弦斎カレーが消えてしまうと、食べなかったことを後悔しそうなので、弦斎カレー再現レストランのひとつであるロブスター料理店「メインロブスター」を訪れてみた。
「カレーのベースは弦斎の書いていたとおりチキンを使っています。あとはお店によって解釈が違うと思いますが、うちでは弦斎カレーには豆が欠かせないと思うので、落花生を甘く煮た"弦斎豆"を加えています」とオーナーさん。なるほど、ほのかに甘い落花生がスパイシーな香りのルーに独特のコクを与えている。こちらの弦斎カレーは800円(ランチタイムは750円)。
ちなみに『食道楽』で紹介されているカレーには、24種類もの薬味が登場する。福神漬、らっきょう、ピクルス……ぼくの頭では、定番の3種類くらいしか思い浮かばないが、ほかに炒ったココナッツ、たたみいわし、刻んだ生のきゅうりや玉ねぎ、しそ、紅生姜などの薬味も、弦斎のお気に入りだったらしい。
カレーのほかにもうひとつ、「高久製パン」が作っている弦斎カレーパンも、見逃せない弦斎フードだろう。実は弦斎カレーよりも知名度が高く、もはや地元では知らない人はいない。平塚土産の定番にもなりつつあるような存在だ。
カレーパンという食べ物が『食道楽』に出てくることはないが、カラリと揚がったパンの中身は、高久製パンがイメージする弦斎カレー。実際にかじってみればすぐにわかるが、カレーにミックスされている赤い具は……まさかまさかの福神漬だ。しかも、パン生地にご飯を混ぜることで、モチモチした食感を生み出すと同時に「ご飯、カレー、福神漬」というカレーライス世界を、見事にパンの中で表現している。
空の上の弦斎は、このカレーパンを見て、ニヤリと笑っているに違いない。