丹沢の麓に広がる水の里へ
二宮町の北方に位置する秦野市は、水道水の約7割を地下水が占めるほどの名水の里。ところが、市街地の中心部を流れる川の名前は、水無川(みずなしがわ)という。名水の里に水無川とは、何とも不思議な組み合わせではないか。
この水無川、山から流れ落ちてくる上流付近では水量豊かなはずなのに、秦野盆地に達すると、途端に水が激減してしまう。両岸の河川敷が公園として整備されていることからも、どれほど「水有川」になる可能性が低いのかがわかる。
ならば、丹沢山系を源流とする水は、一体どこへ消えてしまったのか。答えは、地面の下だ。川を進むことをやめた水は、地下に潜って伏流水となり、平坦な盆地の下に、すなわち秦野の市街地の下に、ひとつの巨大な水がめを作り出している。その地下水の総量は、なんと芦ノ湖の約1.5倍、およそ3億トンと推定されているという。
そんなとてつもないスケールの水がめに貯まった地下水が、地中でうごめくエネルギーに押し出されるように再び地上へ姿を現すのが、いわゆる湧水地だ。市内には個人の家にある自噴井戸なども含めると、約21カ所もの湧水地があると言われ、そのうちのいくつかは、誰でも気軽に水汲みができるように開かれている。
汚染の危機を乗り越えた劇的な"弘法の清水"
7月に入ったある日の午後。ぼくは車にポリタンクやペットボトルを積み込み、そんな湧水スポットを巡ってみることにした。 できるだけ毎月1回は、こうして水汲みに出かけることにしている。水は1週間程度しか保存できないから、本当はもっと頻繁に汲みたいところなのだが。
まず1カ所目は、秦野駅のすぐ近くの"弘法の清水"。すぐ脇にある案内板には、この湧水にまつわる伝説が書かれていた。
「かつてこの地を訪れたひとりの法師が、遠くから水を運んできて飲ませてくれた地主の親切に感謝し、錫杖を突き刺して地面に穴をあけて、3日経ったら底をくりぬいた臼を置けば必ず水が出るであろう、と言い残していった。地主がその言葉どおりにしてみたところ、臼の中から本当に水が湧き出てきた。この話が子孫代々に伝えられているうちに、それはもしかして弘法大師だったのではないか、という説が広まった。。地元では今も"臼井戸"と呼ばれている」
もうひとつの案内板には、「名水復活への道のり」とあった。日本ではじめての試みだったらしい。
「1985年、秦野盆地湧水群は環境庁(現在の環境省)から全国名水百選に選ばれた。しかし、その4年後に、弘法の清水が、発ガン性の疑いのある化学物質に汚染されていることが判明。秦野市は化学物質を排出していた企業と共に、汚染土壌の改善を進め、地下水を汲み上げて浄化してから再び地中へ戻す装置も考案した。そしてついに2004年、"弘法の清水名水復活"を宣言した」
なるほど。この場所を訪れたのは初めてだったので、名水をさっそくペットボトルに詰め、冷たい水を口に含んでみる。無味無臭、クセのまったくない、すっきりした印象の水だった。
遠方からも常連多数、行列必至の"護摩屋敷の水"
次なる名水は、秦野で最も有名なヤビツ峠の"護摩屋敷の水"。麓からクネクネ山道を車で30分以上走る。標高が上がるに連れて霧が濃くなり、視界がどんどん悪くなる。
そんな辺鄙な場所にあるにも関わらず、ヤビツ峠には平日でも朝から夕方まで水汲み客がひっきりなしに訪れ、遠く横浜方面からわざわざ来る常連も少なくない。店で料理に使うのかミネラルウォーターとして出すのか、飲食店関係らしき人たちが次々とワゴンや軽トラックに空のペットボトルをたくさん積み込んでやってきて、そのすべてをいっぱいにするまで水場を占領してしまう。すぐ目の前に「混んでいるときは、ひとり20リットルまでにしてください」なんて心得が書かれていても、完全無視。
しかし、実は"護摩屋敷の水"には、近くの小川沿いにもう一カ所、水汲み場がある。おそらく同じ水源なのに、道路から少し離れているせいか、たいてい空いている。ぼくは行列に加わるのが嫌いなので、いつもこちらを利用していた。
この日は雨が降っていたが、メインの水汲み場は、やはり軽トラック組で混み合っている。一方、もうひとつの水汲み場に行くと、先客はひとりのみ。"弘法の清水"と同じくペットボトル1本に詰めて、水汲み完了。ひとくち飲むと、ほのかに甘い香りがする。これもまた秦野の地下にある水がめからの湧水なのか、それとも山の上ならではの別系統の湧水なのか。わからないけど、おいしい。思わず、おかわり。
田園地帯の知る人ぞ知る"直売所の地下水"
"護摩屋敷の水"のヤビツ峠から山道を降り、途中から右手に見える看板に従って進むと、田原ふるさと公園に行き着く。敷地内には地場産の野菜がずらり並ぶ直売所や、そば処「東雲」があり、我が家の気に入っているスポットなのだが、ここにも水汲み場があることはあまり知られていない。
場所は、農産物直売所の裏手。水場にはふたつの蛇口があり、ひとつには常にホースが付いているが、どちらも同じ地下水だ。味はすっきり無味無臭、エリア的にはかなり離れているはずだが、何となく"弘法の清水"にも似ているような気がする。水場は常に空いていて、車をギリギリまで近づけることができるのもうれしい限り。
直売所のスタッフは、「いつでもどんどん持っていっていいわよ」と言ってくれるが、もちろん野菜を購入してから水汲みをするのがマナーというもの。我が家では、ついでに「東雲」で手打ちそばを食べることも多い。水車を利用して石臼をまわす昔ながらの方法で挽いたそば粉と、この地に湧き出る名水を使って打ったそばは、まさにスローフード。何とも素朴でやさしい味わいだ。
最後に"葛葉の泉"を汲んで、4種類の天然水が勢揃い
そして最後に、"葛葉の泉"にも足をのばす。葛葉川の上流、桜沢林道沿いにある名水だが、ほとんど地元の人しか利用していないので、これまた穴場。実は、ぼくの最も好きな味の水なので、ここだけ20リットルのポリタンクを使う。水がたまるのを待ち切れずに、またもや両手ですくってグビグビ。先ほどの"護摩屋敷の水"もそうだったが、山の上に湧く水は、なぜこんなにも甘いのだろう。
さて、これで4種類の天然水が揃った。家に持って帰ったら、グラスに注いで、子供と一緒に"水のソムリエごっこ"をして遊ぼうか。「むむ、この水は雨に濡れた枯れ葉の香りがしますねえ」「そうじゃなくて、アンパンマンが寝ている芝生の匂いでしょう」なんてことを言い合いながら。
注)それぞれの湧水地にも必ず断り書きがあるが、「水道水のように減菌していないため、生水を飲用する場合はすべて自己責任で行う」のが大前提であることをお忘れなく。