奇妙な展覧会
1937年7月19日、ドイツ・ミュンヘンで大規模な展覧会が始まった。ドイツ国内の美術館から集められたおよそ650点が展示され、4カ月の会期中に200万人もの人が訪れるという大盛況となる。
しかし、この展覧会は通常のものとは大きく異なっていた。会場となったのは、ミュンヘン大学・考古学研究所の倉庫として使われていた貧相な2階建ての建物で、作品は壁や粗末な間仕切りに乱雑に並べられ、額が外されていたり、紐でぶら下げられていたりするものもあった。
「みなさんは、私たちの周りに、狂気と鉄面皮と無能力と頽廃によるできそこないの産物をご覧になっています。ここに展示されているものは、私たちすべてに衝撃を与え、嫌悪の念を催させます」と、ドイツ帝国美術院院長アドルフ・ツィーグラーが開幕の挨拶をした展覧会の名前は「頽廃芸術展」(Entartete Kunst)。
ヒトラーは自らの美意識に合わなかったり、ユダヤ人の手によるものであったりした芸術作品を、「ドイツ民族を腐敗させる」などとして美術館から没収する。その数は2万点に及ぶとされ、その中の選りすぐりの作品を並べて開催されたのが「頽廃芸術展」であり、「神への無礼なあざけり」、「どう見てもばかげている」などの「解説」をわざわざ付けて「さらし者」にしたのだった。
「頽廃」の汚名を着せられたのは、抽象絵画の先駆者ヴァシリー・カンディンスキーや幻想的な作風で人気のマルク・シャガール、ドイツ表現派を代表するエルンスト・キルヒナーら近代西洋絵画の巨匠たちの作品で、その中にパウル・クレーの作品もあった。
パウル・クレー(Paul Klee)は1879年にスイス・ベルンの郊外に生まれ、後にドイツで活躍した画家で、独創的なスタイルと「色彩の詩人」と呼ばれた巧みな色使いで、世界中にその名を知られていた。しかし、その作風はヒトラーに真っ向から否定され、100点以上の作品が美術館から没収された上で、代表作である「黄金の魚」(Der Goldefisch)など十数点が「頽廃芸術展」に展示されていたのだった。
深海を照らす黄金の輝き
「黄金の魚」(1925年)はクレーが40歳の時の作品で、その生涯の中でも最も精力的に創作活動を展開していた時期に書かれた傑作だ。深海を思わせるダーク・ブルーの画面の真ん中で金色に輝く魚。その姿はまるで王者のようで、圧倒的な存在感に恐れをなしているのか、周囲の魚たちは隅の方を隠れるように泳いでいる。ダーク・ブルーと組み合わせることで金色の持つ力を最大限に引き出した「黄金の魚」は、孤独や尊厳、滑稽さなど、見る者に様々な想像力をかきたててきた。
クレーの作品に強く惹かれた詩人の谷川俊太郎は、「クレーの絵本」(講談社刊)の中で、「黄金の魚」を題材にこんな詩を書いている。
「黄金の魚」
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
この詩を元に合唱曲が作られるなど、日本にも多くのファンを持つ「黄金の魚」だが、ヒトラーの目には子供じみた稚拙な絵で、ドイツ国民に害を与えるものだと映った。その結果、この愛らしい作品は「頽廃芸術展」の一室に展示され、あざけりの対象とされてしまったのである。
「黄金の魚」の数奇な運命
「頽廃芸術展」に出品された作品は、その後どうなったのか。ナチスが没収した作品の多くが行方不明で、焼却されたり、破壊されたりした作品も数多いと考えられている。
その一方で、国際的な評価を得ていた一部の作品はスイスに持ち出されてオークションにかけられた。ナチスはこれらの作品を売却することで、増え続ける軍備費の足しにしようとしたのだ。オークションにはピカソやゴッホ、ゴーギャンなどの作品もあり、世界中から集まったコレクターに驚くほどの安値で売却されて行く。少しでも高い値段で売りたいのが本音だったが、「頽廃芸術」であるとしている以上、「素晴らしい作品です!」などと宣伝することができず、安値で売らざるを得なかったという。
ナチスは「頽廃芸術」を生み出していた画家たちの制作活動を禁止し、教職などの公職からも追放して行く。「頽廃」の烙印を押された画家たちは深く傷つき、国外に逃れたり、国内で隠遁生活を強いられたりした。将来に絶望したキルヒナーは、展覧会の翌年に手元にあった作品を燃やした上で、ピストル自殺するという悲劇的な最期を遂げている。
クレーも教鞭をとっていた美術学校を解雇され、アトリエの家宅捜索を受けたことからドイツでの活動を断念し、生まれ故郷のスイスへ亡命する。しかし、亡命先でも危険人物扱いされた上に、預金口座を凍結されたために生活は困窮する。スイスの市民権獲得を求めがクレーだったがその願いは届かず、皮膚硬化症とういう原因不明の難病に侵されて、失意のうちに1940年に60歳で生涯を終えたのだった。
しかし、「黄金の魚」はスイスのオークションにかけられたことで奇跡的に難を逃れた。現在はドイツのハンブルク美術館に収蔵され、「頽廃芸術展」とは正反対の素晴らしい環境の中で、多くの鑑賞者を楽しませている。
ナチスの迫害に苦しめられながらも、自らの信念を貫き作品を生み出し続けたクレー。深海の中で強い光を放つ「黄金の魚」は、孤高の画家の姿そのものなのかもしれない。
<著者プロフィール>
玉手 義朗
1958年生まれ。外資系金融機関での外為ディーラーを経て、現在はテレビ局勤務。著書に『円相場の内幕』(集英社)、『経済入門』(ダイヤモンド社)がある。