今年3月、関東の大手私鉄2社で、歴史に残る大きな「地下化」が実施されました。
ひとつは3月16日、東急東横線渋谷~代官山間の地下化。同時に東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始されました。もうひとつはその1週間後、3月23日に実施された小田急小田原線代々木上原~梅ヶ丘間の地下化。同区間の9カ所の踏切が消え、「シモキタ」こと下北沢の街のど真ん中を走る小田急線の姿もなくなりました。
今回は懐かしの小田急線の写真を紹介しようと思い、ネガの中から探してみました。約230本(1本36枚撮り)のネガの中から探し出せたのは、たった30コマ弱。どこかへ行ったついでにカメラを向けただけのようで、1972年にデビューした9000形が中心でした。
小田急電鉄9000形は、1972~1977年の間に90両が製造された、地下鉄千代田線相互直通運転用の車両です。それまで脈々と続いていた、「低運転台前面貫通型」「貫通扉の上にライト、その左右に標識灯」「貫通扉に行先表示」という、伝統の「小田急顔」を打ち破った斬新なデザインの前面と、一段下降窓を採用したスマートなスタイルが人気の車両でした。デビュー翌年(1973年)には鉄道友の会のローレル賞を受賞しています。
9000形は2006年まで活躍し、全車引退となりました。
写真4には懐かしいものが2つ映り込んでいました。写真中央奥、9000形の背後に、当時の小田急本社ビルが見えます。すでに本社は移転し、このビルには現在、系列会社が入っているようです。写真右奥には、廃止された旧南新宿駅の跨線橋が。現在の南新宿駅は新宿駅10両化対応の改良工事が行われた際に移設されたもので、それまでは現在の新宿駅地上ホーム・地下ホームへのポイントが設置されているあたりに南新宿駅がありました。
続いて伝統の「小田急顔」5000形などの車両を紹介しましょう。5000形は1969年から1982年までに180両が製造され、当時の通勤型の主力でした。急行・準急などで10両運転を行い、輸送力増強に貢献。2012年に引退となりましたが、つい最近まで活躍していたこの「小田急顔」に、いまだ愛着を持っている人も多いのではないでしょうか?
ネガの中から珍しい写真も出てきました。小田原駅で撮影した荷電と電気機関車(写真8・9)です。当時の小田急は荷電の運行があり、国鉄・小田急間での荷物授受のため、小田急の荷電が国鉄小田原駅ホームへ乗り入れていました。荷電にもかかわらず「配送」というサボが出ていますが、社用品輸送を兼ねることから「配送列車」扱いでした。
写真8のデニ1101は、1927(昭和2)年の小田急開業時に近郊区間用として製造された車両を改造したもので、この写真を撮影した1976年に廃車となっています。
その他、貨物列車の運転もあり、当時の専売公社小田原工場への引込み線があった足柄駅や伊勢原駅で貨物扱いがあったようです。国鉄との貨車の授受は、荷電と同じように連絡線を使用していました。1970年代後半、小田急は5形式5両の電気機関車を所有していましたが、現在はすべて廃車となっています。
写真8・9の小田原駅連絡線は、当時、荷電や貨物列車のほか、新車搬入などにも使用されていましたが、後に廃止されました。現在、新車の搬入などには、松田(JR御殿場線)~新松田(小田急小田原線)間の連絡線が使用されています。
「鉄道懐古写真」撮影時期と撮影場所
撮影時期 | 撮影場所 | |
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写真1 | 1974年9月 | 小田急小田原線 下北沢駅 |
写真2 | 1975年3月 | 小田急小田原線 小田原駅 |
写真3 | 1977年1月 | 小田急小田原線 経堂駅 |
写真4 | 1974年9月 | 小田急小田原線 南新宿駅 |
写真5 | 1977年1月 | 小田急小田原線 成城学園前駅 |
写真6 | 小田急小田原線 経堂駅 | |
写真7 | ||
写真8 | 1976年4月 | 小田急小田原線 小田原駅 |
写真9 | 1975年3月 |
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った