青梅マラソンが19日に開催されます。コースの大部分はJR青梅線に沿うように走る青梅街道(国道411号線)で、ランナーと電車が並走するシーンも見られます。その青梅線では、34年前まで72系とともに、首都圏では珍しい両運転台車の戦前型旧型国電クモハ40が活躍していました。
クモハ40は、国鉄の電動車として初めて製造された鋼製の全長20m車です(それ以前は技術上の問題から、電動車17m、付随車20m)。これ以降、新製された国鉄通勤電車はすべて車体長20mとなった記念すべき車両でもあります。1932(昭和7)年から1935年にかけて80両が製造され、前面形状が途中から変更されたため、「平妻」と丸みを帯びた「半流線型」の2種類の顔が存在しました。
クモハ40は両運転台という特徴を生かし、朝夕ラッシュ時の増結に活躍しました。基本的には72系4連の立川寄り(上り方)に連結され、青梅線立川~青梅間のほか、青梅線に乗り入れをする五日市線でも運転されていました。朝のラッシュが終わると青梅駅で解放され、パンタグラフを降ろし、夕方まで"昼寝"(留置)するというパターンでした。
最末期の旧型国電は、クモハ40と72系4連の5連固定編成で、朝夕のみ運転となりました。青梅電車区の廃止により、所属していたクモハ40と72系は豊田電車区(現在の豊田車両センター)へ転属となり、早朝と朝ラッシュの後、中央線立川~豊田間で回送列車も運転されていました。
地味ながら、ラッシュ時の"助っ人"として活躍した青梅線・五日市線のクモハ40。72系とともに、1978年3月29日に運転されたさよなら列車をもって引退しました。
今回紹介した「鉄道懐古写真」
撮影時期 | 撮影場所 | 写真の説明 | |
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写真1 | 1977年9月 | 青梅駅 | 両運転台車クモハ40073。前面は丸みを帯びた「半流線型」だった |
写真2 | 1978年2月17日 | 前面が「平妻」のクモハ40033。奥にもクモハ40が留置されている | |
写真3 | 1978年2月 | 立川駅 | 「半流線型」のクモハ40の横顔。微妙な丸みがわかる |
写真4 | 福生駅 | 朝ラッシュに活躍する、クモハ40ほか5連の立川行 | |
写真5 | 拝島駅 | クモハ40が先頭の五日市線立川行が、拝島駅北方で五日市線から 青梅線上り線へ転線中 |
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写真6 | 写真5の列車が、米軍の燃料輸送タンク車の脇を通り拝島駅へ入線する | ||
写真7 | 1975年11月 | 青梅駅 | 両運転台の特徴を生かし、切り離し後に入れ換え中のクモハ40061 |
写真8 | 留置中のクモハ40。バックは廃止された青梅電車区の建屋 | ||
写真9 | 青梅駅に留置中のクモハ40と、奥多摩行きクハ79ほか4連。 72系と連結する下り方前面にサボ(行先板)はなかった |
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写真10 | 1978年2月 | 日野駅 | 回送ながらも中央線を疾走する旧型国電。先頭はクハ79 |
写真11 | 回送列車の最後尾はクモハ40。行先板は「立川」のまま |
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った