1980(昭和55)年1月20日、鶴見線で72系(73形)の「サヨナラ列車」が運転されました。これで首都圏からぶどう色の72系は全車引退となりました。
72系電車は、戦時設計の63系を前身とした元祖片側4ドア車で、戦後の復興期を支え、主要線区で増加する一方の旅客輸送に大活躍し、全盛期には約1,450両を数えました。
1960年代になり、首都圏の主要線区に新性能電車101系・103系が配置されると、追われるように首都圏のローカル線区へと転属し、第2の人生を送っていました。しかし1976年9月、房総地区を皮切りに、毎年のように各線区から姿を消し始め、1979年9月に横浜線から撤退すると、鶴見線が首都圏最後の72系走行線区となっていました。
鶴見線のさよなら列車運転当日は、首都圏最後の72系をカメラに収めようと、沿線は大勢のファンであふれかえりました。約1万人の人出があったそうです。40~50代の読者の中にも、このさよなら列車を追いかけた人がいるのではないでしょうか?
鶴見線は鶴見駅から扇町駅を結ぶ本線と、途中駅から分岐して海芝浦駅や大川駅へ向かう2本の支線からなる、全長9.7㎞の路線です。ほとんどの区間において京浜工業地帯の工場群の中を走行しており、さまざまなアングルで72系を狙うことができました。
そんな中でも、鶴見線の名撮影地といえばなんといっても国道駅~鶴見小野間の鶴見川橋梁です。さまざまなアングルで狙えるだけでなく、その時々の表情も非常に趣深いものがありました。しかしこのレトロなアーチ橋も掛け替えられてしまい、現存しません。
次回も鶴見線の写真を紹介します。
今回紹介した「鉄道懐古写真」
撮影時期 | 写真の説明 | |
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写真1 | 筆者が製作した写真パネル。各線区のさよなら列車を1枚の印画紙に 焼き付けたもの。水洗不足のためか、全体が黄ばんでいる |
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写真2 | 1980年1月20日 | 鶴見線扇町駅へ進入するさよなら列車。ホームも列車もファンであふれ返った |
写真3 | さよなら運転終了後に解放された弁天橋電車区。とにかくすごい人の数だった | |
写真4 | 1979年12月2日 | 鶴見線浜川崎~昭和間の日本鋼管(現・JFEスチール)専用橋をくぐる。 浜川崎~扇町間は単線になり、左側のレールは貨物線 |
写真5 | 1977年5月 | 工場群をバックに走る鶴見線。背後の高架線は、安善~塩浜操車場 (現・川崎貨物駅)間の貨物短絡線。現在は使用されていない。 武蔵白石~浜川崎間にて |
写真6 | 1979年2月 | 海芝浦駅に進入。京浜運河の向こうに扇島の石油タンクが見える |
写真7 | 1980年1月15日 | 運河と工場の横を走る。鶴見線の象徴的な1枚 |
写真8 | 1979年11月11日 | 朽ちかけた小さな桟橋ごしに |
写真9 | 1978年1月 | 俯瞰で狙う。釣り船との邂逅 |
写真10 | クモハ73の3段窓越しに、夕日が沈む | |
写真11 | 1979年12月2日 | 大俯瞰で狙う。国道駅に進入する列車が小さく見える |
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った