「飯田線の"流電"クモハ52が引退する」との情報をもとに、筆者は1978(昭和53)年9月、東京駅発の347M大垣夜行(当時)に乗車。"流電"の最後の活躍を撮影すべく、豊橋へ向かいました。

豊橋駅で飯田線の始発電車に乗り換え、東上駅で下車。早朝にやって来る2本の"流電"を狙うところから撮影はスタートしました。雨上がりの朝、1本目は幸運にも狭窓のクモハ52 001が先頭車両の電車でした。続く2本目は、広窓の"流電"がやってきました。

東上~江島間で撮影後、長篠の戦いで有名な長篠城址のそばへ移動。断崖のような豊川を渡る"流電"を狙いました。その後、牛久保駅へ移動し、留置中の"流電"を狙いましたが、残念ながらクモハ52 004は6両編成の中間に挟まれていました。

飯田線はご存知の通り、愛知県の豊橋駅と長野県の辰野駅を結ぶ全長195.7㎞の路線です。もともと私鉄4社からなる路線を、戦時中の1943年に国有化しました。そうした経緯から、電化路線ながら駅間距離が非常に短く、急カーブや急勾配が多く存在するのが特徴で、現在でも人気の高いローカル線です。

筆者が訪問した当時の飯田線は、首都圏や関西圏で活躍した戦前生まれの古豪たちが集結し、「旧型国電博物館」と呼ばれていました。中でも"流電"こと流線形電車クモハ52は人気の的でした。

クモハ52は1936(昭和11)から1937年にかけて、京阪神間の急行用として製造された車両です。戦災で一部車両が廃車となったものの、戦後も関西圏で活躍し、1957年に全車が飯田線に転属しています。1978年11月のさよなら運転で引退するまで、のんびりと長い余生を送っていました。

この日、牛久保駅に留置されていたクモハ52 004は、引退後、日本車輌製造で保存され、後に中部天竜駅前にあった佐久間レールパークで展示されました。現在はデビュー当時の美しい姿に復元され、名古屋市内にある「リニア・鉄道館」で展示されています。

牛久保駅での撮影を終えると、筆者は飯田線と名鉄がホームを共同使用する豊橋駅へ移動。名鉄パノラマカーと並ぶクモハ52 001とクハユニ56などを撮りました。

しかし、なかなかいいカットが撮れなかった記憶があります。

"流電"が引退する前後には、戦後生まれの80系電車が飯田線に大量投入され、旧型国電の若返りが行われました。ところが1983年、今度は旧型車両の置換えが進められ、80系は戦前生まれの旧型国電より一足早く引退してしまいます。

戦前型旧型国電の定期運用は1983年6月まで続けられ、同年8月のさよなら運転をもって全車が引退。これにて、「旧型国電博物館」の呼び名を返上したのです。

今回紹介した「鉄道懐古写真」

撮影時期 写真の説明
写真1 1978年9月23日 雨上がりの早朝、流電のトップナンバークモハ52 001を先頭にした
6連がやってきた。飯田線、東上~江島間
写真2 通称「広窓流電」クモハ52 003ほか4連。飯田線、東上~江島間
写真3 豊川の鉄橋を渡るクモハ52 004ほか4連。鉄橋の右側が長篠城址。
飯田線、長篠城~鳥居間
写真4 朝ラッシュが終わり、牛久保駅で「昼寝」(留置)していた"流電"。
この日はクモハ52 004が中間に挟まれたていた
写真5 クモハ52 004の前頭部。"流電"は横顔でもぐっとくるものがある
写真6 豊橋駅のホームに並ぶ3本の電車。奥から名鉄パノラマカー、国鉄
クモハ52 001、クハユニ56 003。いずれも「過去帳入り」した車両
写真7 撮影当日、両端が流電だった唯一の編成。クモハ52 003ほか4連
写真8 クモハ52 005。飯田線へ転属後、方向転換された
写真9 流電と並んだ兄弟車”半流”こと半流線形の電車、クモハ53 007。
テールライトの赤い光跡を残し、出発していく
写真10 写真左はクハ47 114。この位置に"流電"は停まってくれなかった
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った