このほど房総地区から引退する「スカ色」の113系。かつては横須賀線の主役として活躍し、「SM分離」が行われる前は東海道線でもその姿を見ることができました。「湘南色」の電車や通勤型電車、さらには旧型国電と並ぶこともしばしば。そんな時代の写真を紹介したいと思います。

横浜駅に停車中の横須賀線113系電車。その隣を、横浜線直通の旧型国電(先頭車はクモハ73 600番台奇数車)が発車。何度も狙ってようやく撮れた貴重なカット。1978年5月。

かつて、東海道線と横須賀線は東京~大船間で線路を共用していました。しかし、1960~1970年代の高度経済成長期、都心への人口集中や東京近郊のベッドタウン化により、東海道・横須賀線も含め、首都圏の路線は「殺人的な混雑」と呼ばれるほどの事態になっていました。

混雑緩和のため、列車の増発を繰り返した結果、これ以上は列車間隔を詰められない状況にまで追い込まれ、輸送力が限界に達していました。

この状況を打破するために、当時の国鉄は通称「通勤五方面作戦」の一環として、東海道・横須賀線で「SM分離」と呼ばれるプロジェクトが始動。横須賀線を東海道線から分離し、別線として輸送力を増強することになったのです。

横須賀線上り113系(写真左)と、東海道線下り113系(同右)。右奥に京浜東北線の103系も確認できる。1980年8月30日。

川崎駅に到着した横須賀線下り列車。側線の旧型客車は長い間留置されたが、理由は謎のまま…。1980年8月30日。

川崎駅付近で顔をそろえた横須賀線113系と京浜東北線103系。1980年8月30日。

横須賀線113系と京浜東北線103系が、品川駅に同時に入線。1980年8月30日。

「SM分離」の「S」「M」とは、列車番号の末尾に付くアルファベットのこと。通常、電車の列車番号は、たとえば「1234M」というように、末尾に「M」(モーターの意味)が付く場合がほとんどです。

横須賀線113系と、高崎第二機関区の旧型電気機関車EF15が牽引する貨物列車との並び(「SM分離」の後の1981年2月17日に撮影)。貨物列車が停まっていた場所は現在、東海道新幹線の品川駅に。

これにしたがえば、東海道線も横須賀線も末尾は「M」となります。ただし、運行系統が異なる両線を区別するため、横須賀線の電車は、末尾に「スカ線」を意味する「S」を付けていました。ここで紹介した横須賀線の電車の写真をよく見ると、正面の扉の窓に列車番号が表示され、その末尾が「S」となっていることに気づくでしょう。このことから、「SM分離」となったわけです。

横須賀線においては、「品鶴線」と呼ばれる品川~鶴見間をはじめ、東海道線の貨物線を旅客線に転用。1976年10月より東京~品川間の地下線の延長使用を開始していた総武快速線と直通し、運転系統が統一されます。横浜市の北側を大きく迂回する貨物線の代替ルートが建設された後、1980年10月1日より分離運転が開始されました。

「SM分離」は東京~大船間だけでなく、既存の貨物線や新線建設にも影響を与えました。あらためて巨大なプロジェクトだったと認識させられます。

それにしても、懐かしい「スカ色」の電車の写真を見ていると、東海道線をかっ飛ばしていた113系の、独特のモーター音がいまにも蘇ってきそうです。

※写真は当時の許可を取って撮影されたものです。
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った。