最近、テレビ番組でも取り上げられた大人気の踏切があります。湘南新宿ラインや埼京線の電車も走る山手貨物線、目黒~恵比寿間の「長者丸(ちょうじゃまる)踏切」です。
5月に放送された「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系)では、おなじみ電車クラブの面々が、音のない「長者丸踏切」の映像に、電車の音真似をしながらアフレコする企画を行いました。
さらに7月6日放送の「ちい散歩」(テレビ朝日系)でも、目黒駅~恵比寿駅のひと駅散歩中、俳優の地井武男さんが、「面白いなあ」と言いながら踏切に立ち寄っていました。
そんな長者丸踏切周辺の懐かしい写真と、忘れ去られた踏切に迫ります。
新宿方面へ向かうEF10牽引の貨物列車が長者丸踏切に差し掛かる。当時の貨物列車は、写真のようにコンテナ貨車や2軸貨車など雑多な貨車が連結されていて、そのジョイント音を聞くのも楽しいものだった。1974(昭和49)年4月 |
なぜ、踏切に名前が付いているのか?
新宿方面へ向かうEF10(初期形)牽引の貨物列車。EF10は1934(昭和9)年から製造が始まった貨物列車牽引用の電気機関車。製造時期によりボディーが変化していった。1983(昭和58)年、最後の1両が廃車され形式消滅。築堤上は山手線外回りの103系。1974年4月 |
その理由は、鉄道会社が踏切を管理する上で必要だから。踏切の点検や整備・補修、さらには事故等緊急時の通報などに重要な役割を果たします。
しかし踏切の名前の付け方は各社まちまちで、JRは地名などを付けることが多く、その他の私鉄では、地名に加えて数字の1から順番に付けていくものや、駅名の後に数字を付けたものもあります。
「長者丸踏切」の名前も、この付近にあった「長者丸」という地名から付けられました。その由来は約400年前、この地に住んでいた「長者」と、その屋敷を現す「丸」からきているそうです。
ただし、「長者」が住んでいたとされる踏切東側の高級住宅街を探しても、「長者丸」という住所は見当たりません。
なぜなら1967(昭和42)年、地名の住居表示化(地名の統廃合)が行われたときに、「品川区上大崎長者丸」から「品川区上大崎2丁目」(2丁目1~10番あたり)へ変更され、消滅したからです。
現在、東京23区では珍しくなってしまった駐在所のほか、マンションの名前などに「長者丸」の文字が残るのみとなっています。
大崎方面へ向かうEF13牽引の貨物列車。EF13は戦争中に製造が開始された形式。使用する鋼材を極限まで減らし、機器を簡素化する「戦時設計」を取り入れた結果、機関車としての重量が不足し、「死重」(動輪上の軸重を確保するためのコンクリートブロック)を積むことになった。当時の山手線は、ガーター橋で貨物線を乗り越していた。長者丸踏切にて。1974年4月 |
上の写真の逆方向から。クハ103(ATC準備車)が先頭の山手線外回り電車が走行中。当時は写真のような前3両と後3両のみ冷房車という編成が多かった。長者丸踏切は、山手線ガーター橋の向こう側に位置する。山手線、目黒~恵比寿間の大丸跨線橋より目黒方面をのぞむ。1974年10月 |
山手線のガーター橋と外回り電車をとらえた上の写真は、山手線と山手貨物線を跨ぐ大丸(だいまる)跨線橋から撮影したものです。
ところでこの大丸跨線橋が建設される前、ここに踏切があったことはご存知でしょうか? その廃止された踏切の痕跡が、1枚の写真に写っていました。
ここにあったのは、山手線の「新大丸踏切」。写真で示した赤いラインに沿って、細い道路を画面右下方向へ坂道を下ると……、山手貨物線の「大丸踏切」があります。そう、ここには2つの踏切と、それを結ぶ短い道路があったのです。踏切の廃止は1971(昭和46)年。同時に大丸跨線橋も完成しています。
国鉄時代の資料によると、「山手貨物線『長者丸踏切』 品川起点4K606M」「山手貨物線『大丸踏切』 品川起点4K781M(廃止)」「山手線『新大丸踏切』 品川起点4K811M(廃止)」となっており、わずか205mの間に、2線あわせて3つの踏切が存在していたことになります。
この状況はいまもインターネットで閲覧できます。goo地図にて、『目黒区三田1丁目』で検索し、 昭和38年の古地図に切り替えてみてください。
地図の目黒寄りにある、山手線が山手貨物線をまたぐ場所に長者丸踏切があり、その北側に山手線の新大丸踏切と、山手貨物線の大丸踏切がつながっているのを確認できるはずです。
この「大丸」という名前も地名が由来。明治時代、ビール工場と長者丸との間の低地にあった田んぼの名称「大丸下耕地」からきているようです。昔、大丸踏切を渡った先には田んぼが広がっていたのかもしれません。
山手線の新大丸踏切に「新」の文字が入っているのは、線路の建設時期の違いによるもの。山手貨物線は明治時代に開通し、貨物・旅客両方の列車が運行されていました。その後、旅客が増加したため、大正時代に電車線(現在の山手線)を増設。複々線となった際、この場所に新しく踏切を設置したようです。
電車線は目黒~恵比寿間で貨物線を跨ぐ形で建設されたため、2つの線路間に高低差が発生。この高低差を緩和するため、大丸踏切から約30m離れた場所に新大丸踏切が設置され、間に坂道が作られたとのことでした。
踏切の名前から紐解かれる地名の由来や、鉄道建設の歴史。なかなか奥深いものがありました。
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った。