都電荒川線で、6月12日より「都営交通100周年記念号」が、ヘッドマークを掲げて運転を始めました。これは都電や都営地下鉄などを運営する東京都交通局が、8月1日に創業100周年を迎えるのを記念したもの。7月14日からは、「東京の交通100年博」が江戸東京博物館で開催されます。明治から昭和、平成に至る東京の交通100年の歩みを、交通局が所蔵するさまざまな資料や昔の都電の実車展示(6086号)などで振り返るそうです。
そこで当連載でも、いまから36年前の1975(昭和50)年、都電荒川線誕生から1年後の懐かしの風景を振り返ってみたいと思います。
都電100年の歴史は、1911(明治44)年、当時の東京市が東京鉄道から路面電車事業を買収し、東京市電気局として創業したことから始まります。
大正から昭和にかけて、都民の足として路線を拡大、最盛期の1943(昭和18)年には、1日193万人が利用し、路線は41系統・計213kmを記録、東京の都心を網の目のように走っていました。1943年は都制が施行された年でもあり、東京都となると同時に、"市電"は"都電"へ。
しかし戦後、東京の発展とともに自動車が増加すると、交通渋滞が多発します。車の洪水の中で身動きできず、次第に都電は邪魔者扱いされていきました。利用客も減少したため、1967(昭和42)年から1972(昭和47)年にかけて、184kmもの路線が廃止されていきました。
そんな中、路線の大部分が専用軌道だったため、廃止されずに残っていた2つの系統が一本化されます。1974(昭和49)年10月、三ノ輪橋~早稲田間を結ぶ唯一の都電「荒川線」となりました。
都電荒川線も、時代とともに大きく変化。ワンマン化、冷房化、新型車両の導入、電停(停留場)のバリアフリー化……。そうした変化のひとつに、道路上を車と一緒に走る併用軌道の減少があります。荒川線の誕生当時、数カ所の併用軌道がありましたが、道路の拡張などで姿を消していきました。
中でも早稲田の隣「面影橋電停」は、昭和の雰囲気を色濃く残していました。
わかっていながらも、その激変ぶりを確認しに行ってきました。
期待は裏切りませんでした。
面影橋に、当時の"面影"はまったくなかった……。
現在の面影橋電停を撮影に行った際、長年ここにお住まいの方に、昔の写真を見てもらいながら話を聞いてみました。その話をまとめると……。
・石畳の併用軌道は面影橋電停から早稲田方面にあったが、短かった。
・当時の線路は建物のすぐそばにあったが、道路拡張時に移設。新目白通りの「下り」と「上り」に挟まれた、専用軌道となった。
・電停のそばにあった店舗は移転。跡地には茶色の大きなビルが建った。
昔を思い出しながら、懐かしそうにお話されていたのが印象的でした。
昭和の時代から比較すると、周辺の風景は激変し、都電の電車も電停も大きく変化していました。ただ、下駄履きでも乗れそうな「都民の足」都電のスタイルだけは、いまも変わっていないような気がしました。
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った。