リオデジャネイロオリンピックとSMAP解散の話題が目立つ中で、鉄道に関する興味深い報道があった。「鉄道」という言葉が使われた最古の文献が見つかったという。場所は広島県福山市の「ふくやま草戸千軒ミュージアム」(広島県立歴史博物館)で、7月22日から9月11日まで開催中の企画展「ひろしま鉄道ヒストリア -蒸気機関車から新幹線まで-」の展示資料の中にあった。企画展で展示しているという。
このニュースはふくやま草戸千軒ミュージアムが8月10日に発表し、翌11日に山陽新聞が報じていた。その後、8月17日に産経新聞が報じると、19日に毎日新聞、20日に読売新聞など全国紙の報道が続き、広く知られるようになった。
山陽新聞によると、「鉄道」が記された最古の文献は福山藩の儒学者・江木鰐水に関する史料「江木鰐水手記写(うつし)」だという。江木は福山藩主・阿部正弘に仕えており、当時の阿部は江戸幕府の老中首座だった。老中は将軍直属の重役で、老中首座は老中職の筆頭であり、財政を担当する。つまり、当時の将軍、徳川家慶の側近だ。その阿部正弘の意を受け、米国使節に接触したとされている。
産経新聞では、江木が「将軍家に献上される蒸気機関車の模型が横浜で試運転されるのを見学したとみられる」と説明している。ペリー2度目の来航時で、1854(寛永元)年だった。山陽新聞によると、江木鰐水手記写には「其疾キ事馬ニ乗カケリ遂ガ如クナリ。誠ニ早キナ也。困ルハ鉄道ヲ築事」との文があったという。「馬に乗っているような速さ、難点は鉄道を敷設すること」と言っている。機関車の速さとともに、道にレールを敷くという大がかりな仕掛けに驚いたのだろう。
日本に「鉄道」の概念を広めた人物は福沢諭吉だ。福沢は1866年に『西洋事情』という本で鉄道を紹介している。その6年前の1860年には、福井藩の政治顧問だった横井小楠が藩政改革のために『国是三論』を著し、ロシアの鉄道を紹介しているとのこと。ペリーが機関車を披露する1年前、1853年にロシアのプチャーチン提督が長崎に来航して鉄道模型を披露している。横井小楠はそのあたりから情報を得ていたのだろう。
いままではこの『国是三論』が「鉄道」と書かれた最も古い文書とされてきた。横井小楠はその後、勝海舟らと交流を持ち、坂本龍馬とも会談している。おそらく福沢も『国是三論』を知り、「鉄道」の言葉を使ったと思われる。
しかし、江木鰐水が「鉄道」と記したのは『国是三論』の6年前、1854年だ。ペリーの来航時に初めて模型機関車を見た日本人のひとりで、その場で手記を書いていた。鉄道は米国では「Railroad」で、「Iron road」ではなかった。だから鉄道は英訳ではない。米国人から「鉄でできた道」と説明され、直感で「鉄道」と腑に落ちたのだろう。
これ以前に鉄道を目撃した日本人はジョン万次郎だ。万次郎は1841年に遭難して渡米、1851年に帰国し、薩摩藩主・島津斉彬に米国文化を報告している。1852年に万次郎の話を書き起こした「漂巽紀略」が作られ、万次郎の鉄道体験談もある。万次郎はサクラメントからカリフォルニアの金山に向かうときに鉄道を利用している。
しかし彼は「鉄道」の言葉は用いず、「レイローという変わった車があり、道に鉄の板を敷いている」と表現している。蒸気機関車を「レイロー」と呼んでいた。おそらくレールロードの意味だろう。惜しい。ただ、現在も日本語で「列車に乗る」と「鉄道に乗る」はよく使うから無理もない。要するにジョン万次郎は「鉄道」という表現をしなかった。
江戸幕府の海外留学生派遣は1862年からだ。やはり1854年の「江木鰐水手記写」が「鉄道」の原点かもしれない。ただし、山陽新聞によれば、ふくやま草戸千軒ミュージアムの談話として、「史料は写しであり原本ではない。写しを書き直す際に、普及した言葉を用いた可能性もある」とも書いているとのこと。そうなると書き直した時期も知りたいところだけど、実際に機関車と鉄製のレールを見た江木が「鉄道」と表現したと考えたほうが自然だろう。江木だけではなく、その場にいた誰もが直感で「鉄道」という言葉を想起したと考えられる。
鉄道の「不合理」の原因
鉄道に興味がある人なら、一度は「鉄道とは何か」を考えるはずだ。そして日本には、「鉄道」に2つの解釈がある。ひとつは文字通り、鉄のレールを使った線路。もうひとつは法規上の鉄道だ。「専用の軌道を持ち、他者のために輸送を提供する事業」である。この法規の下で、コンクリートレールのモノレール、リニア浮上式軌道、専用道を走るバスまで、「鉄道」という扱いになっている。
しかし鉄道発祥の地、イギリスでは「Railway」、アメリカでは「Railroad」で、鉄の「Iron」の意味はない。「Rail」は鉄道だけではなく、柵の横木(柱と交わる側)、はしごの横桁、手すりなども意味する。そもそもイギリスでは、蒸気機関車が普及するまで鉱山のトロッコなどのレールは木製だったという。「Rail」は素材ではなく機能の名前だ。しかし、江木たち日本の鉄道の目撃者たちは素材である鉄に驚いた。日本で鉄といえば刀。きっと「地面に刀を並べるのか!」という驚きかもしれない。
文明開化の頃、日本にはさまざまな外国文化が入ってきた。鉄道では駅を「ステン所(Station)」、きっぷを「テケツ(Ticket)」と呼んだ時期もあった。そこから考えると、鉄道は万次郎が記した「レイロー(Railroad)」になっても良かった。訳語としては「柵道」「条道」になったかもしれない。それを素材名の「鉄道」と呼んでしまったために、素材が変わると不合理な名前になった。
ちなみに、「枕木」の英語は「sleeper」である。意味として「枕」は正しいけれど、「木」は余計だった。「木」を付けたばかりに「コンクリート枕木」「FRP枕木」という、妙な名前が作られてしまった。枕だけにしておけばよかった。
文明開化の頃の人々は、鉄のレールに驚き、レールの下で支えている枕木が鉄よりやわらかい木製という事実に驚いた。その衝撃は、機能に素材の名をつけてしまうほどのショックだったのだろう。その驚きの大きさも感じ取れる。
1872年に鉄道が開業し、「鉄道」も「枕木」も定着して、140年以上も経ってしまった。定着しているから、いま正しい意味を説いて呼び名を変えようというつもりはない。それだけに、なにか新しいものについて名前を付ける場合は、後の世を考えて慎重に対処しなくてはいけない。素材は変わる。機能は変わらない。ふくやま草戸千軒ミュージアムの発表は、そんな教訓を導くニュースだった。