1909(明治42)年2月28日、官営鉄道天塩線(現・JR北海道宗谷本線)の名寄駅を発車した列車は旭川へ向かっていた。しかし、途中の塩狩峠で最後尾の客車の連結が外れて逆走し、勾配を下って暴走した。満員の乗客に死が迫る。そのとき、鉄道職員の長野政雄が線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救った。
小説『塩狩峠』は、この実話を元に著された小説である。この事故は当時の人々に衝撃を与え、長野政雄の死は自殺説、事故説などもあったという。著者の三浦綾子は、クリスチャンであった長野の行為を自己犠牲と理解し、なぜ、彼が犠牲となる心境に至ったかを描いた。
"その日"を描くために、物語は10歳の少年時代から始まる
実話を元にしている小説だが、主人公の名は永野信夫となっている。三浦親子が新潮文庫版のあとがきで説明するように、事故後半世紀を過ぎていたため、長野政雄に関する資料は少なく、近親者も見つからなかった。実際の事故の資料と、長野がクリスチャンとして活動した記録がわずかに残っていたという。『塩狩峠』で描かれる永野信夫は、長野政雄の行為を理解するために創られた人物だ。
物語は永野信夫が10歳の頃から始まる。前知識を持たずに同作品を読めば、男の子が北海道の鉄道員として成長していく姿を描いた作品だ。再会した母が、当時は社会から蔑まれていたキリスト教徒であることに悩みつつ、友を得て、恋心を抱き、思春期の性に悩み、そして聖書の教えに救われる。成長した青年が幸福をつかみかけたところで、衝撃の結末が待っている。あまりにもせつない話だ。
しかし、塩狩峠の事故はあまりにも知られており、同作品の発表時は誰もが結末を知っていた。ただし、知っていても理解できたわけではない。永野信夫がなぜ、犠牲的な行動を成し得たか? この事故の最大の謎を解き明かすために、三浦綾子はこの物語を10歳から始めた。クリスチャンである三浦綾子が、永野信夫とキリスト教との関わりを描く。そして、「神が与えたもうもの」として、永野信夫の強い意志を示した。「これが俺の運命だ。命の正しい使い方だ」と。
冒頭に聖書の一節が示される。クリスチャンならその意味が理解でき、物語を読み進む助けになるのかもしれない。筆者のようにキリスト教を知らない読者にとっては、その真意はわかりにくい。しかし、最後まで読み、あらためてその言葉が現れたときには、少し理解できたような気がした。鉄道員が命と引き換えに乗客を救った。それは仕事に対する使命感と誇りの表れだけではなかった。それを理解するために、三浦綾子は物語を10歳から始めたのであった。
事故と対策の積み重ねが、今日の安全な鉄道を築いた
塩狩峠の事故は、いくつかの不遇が重なって起きてしまった。同作品では、この区間は本来、列車の前後に機関車を連結していると書かれている。2台の機関車が客車を挟み、汽笛で合図を交換して協調する。ところが、名寄発の始発列車は客車が少ないため、後部の補機は連結されなかった。客車が少ないとはいえ、乗客は多く満員。それが逆走時の加速につながった。乗客数が少ないなら、速度が低いうちに雪に飛び込めばよかった。
決定的な原因は、故障しやすい連結器と非常ブレーキの不備だった。当時の連結器は大きな鎖のついた鉄製の輪をカギに引っかけて固定するタイプ。簡単に言うと、「プラレールの連結器の鉄製巨大版」のようなものであった。鎖部分の腐食や金属疲労を見逃せば、連結が切れるという事態になりやすかった。また、引っ張り方向をつなぐ機能のみで、客車同士が接近するときの支えにはならない。客車同士が衝突しないように、連結面には大きなダンパーがあって、突っ張り棒のように作用して車両の間隔を維持した。
官営鉄道時代、連結器に係員が挟まれる事故や、列車の分離などの事故がしばしば起こった。そこで連結器については、5年の歳月をかけて事前準備した上で、1919(大正8)年7月17日(九州は7月20日)に、約6万の鉄道車両について、いっせいに自動連結器へ交換したという。
また、当時のブレーキは列車全体に作用するものではなく、機関士の合図で、車掌が客車のブレーキをかけた。永野信夫が乗った車両に車掌がいなかったことも不遇であろう。
その後、鉄道車両において自動空気ブレーキが採用された。列車全体に圧縮空気のパイプを通し、つねに一定の圧力を与えておき、減圧するとブレーキがかかるしくみになっている。車両が分離すればパイプが外れるため、そこから空気が漏れて減圧となってブレーキがはたらく。パイプのつなぎ目から空気が漏れるなど、整備不良状態でもブレーキが発動する。
現在の鉄道の安全技術は、突き詰めれば塩狩峠の事故のような犠牲と、その対策の積み重ねである。築き上げた安全対策は、その趣旨を蔑ろにすれば崩れてしまう。これは鉄道に限らず、すべての安全対策に共通する。私たちは塩狩峠を忘れてはならない。長野政雄の命を無駄にしてはいけないのだ。
小説『塩狩峠』に登場する鉄道風景
青函連絡船 | 永野信夫が来道する。札幌へのルートは、函館から室蘭まではさらに船、そこから岩見沢回りで札幌と記述されている。北海道炭礦鉄道が室蘭本線を開業させていたが、函館本線はまだ全通していなかった |
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北海道炭礦鉄道 | 永野信夫が就職し札幌駅に勤務。1906(明治39)年に官営鉄道に買収される |
官営鉄道天塩線 | 現在のJR宗谷本線。旭川から稚内へ向けて建設された。樺太へ連絡する目的もあった |
官営鉄道名寄駅 | 永野信夫が名物の饅頭を買う。婚約者の家と媒酌人の家への土産であった |
官営鉄道士別駅 | 永野信夫にとって懐かしい人が列車に乗ってくる |
塩狩信号場 | 現在は宗谷本線の塩狩駅。付近に長野政雄顕彰碑、塩狩峠記念館がある |