写真家は、写真を使って人とコミュニケーションをとっている人種である。「写真はただ撮っているだけでは、表現につながらない」と飯沢はいう。撮影編の最終回は、作家の作風からコミュニケーション能力を鍛える方法を解説する。 (文中敬称略)
真似るなら徹底的に真似ろ
写真家になりたい人は、漠然と「写真家になりたい」ではなく、どんな写真家になりたいのかという具体的なビジョンがあるべきだと思う。好きな写真家がいるのなら、ものの見方とか考え方、撮影機材、撮影スタイルなど、すべて真似てみるといい。「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」から来ているという話もあるしね。真似することはすごく勉強になる。でもそんなに簡単ではないんだよ。
篠山紀信は大変なモノマネの才能の持ち主。どんな写真家のスタイルでも真似ることができた。そういえば前にカメラ雑誌で、色々な写真家のスタイルで撮影するというシリーズを発表したことがあった。技術はもちろんだけど、それぞれの特徴をちゃんと捉えるには観察力と分析力が必要だ。篠山は学生時代に落語研究会に所属していたというから、そういう場でモノマネの表現力を鍛えたんじゃないかな。色々な人の作風を取り込んでいく中で、自分自身の作風を絞り込んでいったんだ。人の真似をするというのは、否定することではなく、肯定的に写真を見ていくということ。そうするとどんな写真にも学ぶべきことがあるのがわかる。でも、「真似している」という意識をきちんと持っていないとダメ。そうしないと、いつまで経ってもモノマネから抜け出せなくなってしまう。一番怖いのは、中途半端に、無意識に真似すること。何を撮ってもどこかで見たことあるような作品になってしまう。モノマネ写真家で終わるか、そこから脱皮できるかは紙一重だけど、一度徹底して、顔まで似てくるくらいまで真似するのもいいかもしれない。
今までに撮ったことのないものを撮れ!
コンテストなどでアマチュアの作品を見ていると、毎年、同じようなパターンの作品を撮ってくる人がいる。写真がある程度撮れるようになると、自分の中で被写体の見方、構図の構え方、撮り方など、固定したシステマチックな撮り方ができ上げって、ワンパターンになってしまう。それを打破するためには前々回で話したようにカメラを変えてみるのもいいけど、今まで自分が撮ろうとしなかったジャンルを撮ってみるのも1つの方法だね。例えば人間を撮ることを苦手に感じて風景ばかり撮っている人なら、あえて人間を撮ってみるのもいいんじゃないかな。自分の中に潜んでいた新しい可能性が見つかるかもしれない。
80-90年代以降、「好きなものを撮ればいい」という考え方がすっかり定着してしまった。基本的に僕も賛成。自分の写真なのだから、嫌なものを撮る必要はない。だが、今まで苦手だと思っていたものを1度振り返って考えてみて、試しに撮ってみることで違う見え方ができるかもしれない。時には冒険も必要と言うことだね。例えば晴れた日は誰だって気持ちが良いから、写真を撮りたいと思う。逆に、雨の日はカメラを持ち歩かないことが多いだろう。そこで、あえて雨の日にカメラを持って出かけてみると、けっこう新鮮なんじゃないかな。きっと新しい自分を発見できる可能性が非常に高い。今まで撮ったことのないものを撮ってみることは、自分にとって大きなチャンスなんだ。むしろ今まで一度も撮ったことがないものを撮ってみるといい。
母親のヌードを撮る
70-80年代に東京綜合写真専門学校で講師をしていた土田ヒロミは、1年生のクラスで「母親のヌードを撮ってこい!」という課題を出したらしい。母親のヌードを撮るためには、母親を説得しなければならない。無理な要求を通すためには、高度なコミュニケーション能力が必要になってくる。その能力を養うための課題だったけど、結果は土田の予想とは反して、ほとんどの生徒が撮ってきたらしい。母親は可愛い自分の子どものためにヌードを撮影させた。これは日本社会特有の母と子のもたれあい、過保護の現れでもあるように思えてしまう。
それはともかくとして、コミュニケーション能力は撮影だけでなく、あらゆる場面で必要になってくる。写真の良さを伝えるために自分の言葉で説明する必要があるし、写真評論家やギャラリーのオーナー、編集者に作品を売り込むときにもコミュニケーション能力が必要になる。コミュニケーション能力を鍛える方法として、たとえばビジュアルアーツ大阪では、「街へ出て知らない人を正面から撮ってくる」という課題があったようだ。これは今や肖像権の問題で難しくなっていそうだけどね。
でも、一般的に言葉や体を使うコミュニケーション能力は、関東より関西の人の方が高いと思う。大阪に旅行に行くとよく知らない人に話しかけられるし、タクシーの運転手さんは必ず話題を振ってくる。時にはうるさいと思うこともあるけど、関西圏はおしゃべりを楽しむ文化があるから、写真家にとって有利だね。関西ではカメラを持って街へ出て、話をしながら撮影するというコミュニケーション空間が成立しやすいということ。コミュニケーション能力を鍛えるために、大阪や外国に行ってみるのもいいことだ。自分を異文化の状況に追い込んでみることは、写真家にとっては、とても大事な経験になるよ。
見ること、観察すること、考えること
ドイツの肖像写真家であるアウグスト・ザンダーは、「見ること、観察すること、そして考えること」という名言を残している。ザンダーは、1920年代から“Menschen des 20. Jahrhunderts(20世紀の人々)”という、あらゆる階層、民族、職業のポートレートを記録する壮大なプロジェクトを展開した偉大な写真家。結局はこのプロジェクトは未完に終わるけれど、彼の仕事は20世紀後半以降の現代写真におけるポートレートの形を決定づけた。
この言葉は、写真家にとっては本当に大切だよ。目の前にあるものを、ただ見るだけではなくて、客観的な眼でしっかりと観察する。そして撮影後にはその写真が自分にとってどんな意味を持っているのかを徹底して考えることで、撮影の行為が大きく、力強く展開されていくんだ。「見る、観察する、考える」という行為を何度も繰り返すことで、一人前の写真家になっていく。でも、この中で一番大事なことは、やっぱり「考える」ことだね。
何も考えていない人間は写真家に向かないよ。別に難しいことや哲学的なことを考えるんじゃなくて、この「考える」とは、ごく普通の日常行為の延長でいい。料理をするときに、どうやったら手際よく作れるか? とか、旅行したときに、どうすれば効率よく行動できるか? というレベルの話だ。考えることの積み重ねが経験値になり、結果的にユニークな物の見方をする写真家を作り上げていく。写真家にとって大切なことは、日常の中で見えてくる「知恵」の積み重ね。頭でっかちの知識ではなく、身体レベルで身につけた知恵、これが一番大切なんだ。
見切りをつける大切さと、言い訳をしないこと
「継続は力なり」という言葉がある。たしかにそれは正しいけれど、時には見切りをつけることも大切だね。人間関係もそうだけど、ダラダラつき合っているとお互いが駄目になってしまう。駄目だと思ったら、見切りをつけて、思い切って次に行く勇気も必要だ。でも見切るということは、今まで自分のやってきたことを否定するということだから、とても難しいだろう。
見切りをつけるには、自分や自分自身の作品をクールに突き放して見る客観性が必要になる。いかに自分自身に距離を置けるかだ。簡単に言うけど、すごく難しいよ。僕は大学の写真学科に入ってしばらくは、モヤモヤしながら写真家になることも考えていたけど、卒業にあたって卒業制作と卒業論文のどちらかを選ばなくていけなかった。僕はその時点で写真家になる才能がないと自分で判断して、論文を選択した。僕の学年で卒業論文を書いて卒業したのは、百何十人いるうち僕を含めて2人だけだった。選択肢としてはマイナーな選択だけど、そのときの判断は偉かったと自分で自分を褒めたいと思う。だって、もしあのとき写真家になることを選択していたら、いまごろはフラストレーションで潰れているはずだ。
マン・レイ訳:千葉成夫『SELF PORTRAIT』1981年 美術公論社 |
写真家になるための努力と才能の比率はどっちも100%だよ。努力しない人はいくら才能があっても駄目だし、才能のない人は努力を続けても辛くなってしまう。努力は100%しないと努力じゃない。才能もあるかないかのどちらかだ。僕が一番言いたいことは、言い訳しない、弁解しない、後悔しないということ。「テーマが見つからない」とか「お金がない」とか「時間がない」とか、弁解ばかりしているようじゃ、その時点でダメ。いい写真家は、言い訳する前に体が動いているよ。反省は前に繋がるけど、終わったことを後悔しても仕方がない。才能を信じ続けることと、見切りをつけることは、矛盾しているかもしれないけれど、実はどっちも必要なんだ。決めたことには自分で責任を取るしかない。でもとにかく最初のうちは、撮りまくることから始めて欲しい。見切りをつけるのはその後でいいんだからさ。
飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)、『きのこ文学大全』(平凡社新書)、『戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書)など著書多数。写真分野のみならず、キノコ分野など多方面で活躍している。
まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)