毎年、数多くの写真学生の卒業制作を見ているという飯沢耕太郎氏。今回のコラムでは写真学生の学生生活の集大成である卒業制作について語っていただいた。学生の作品だからといって侮ってはいけない。彼らの才能はダイヤの原石であり、大きな可能性を秘めている。08年の卒業制作の傾向を見る前に、はじめに写真を学ぶ教育機関のについて簡単に説明したいと思う(文中敬称略)。
写真の教育機関とは
写真の教育機関っていうのは戦前からあるんだ。その歴史をさかのぼっていくと、大正4年に東京美術学校(現:東京藝術大学)に臨時写真科ができた(3年制、大正15年廃止)。多分それが日本で一番最初の写真の教育機関じゃないかな。その後、小西写真専門学校(現:東京工芸大学)とか日本大学藝術学部(以下、日芸)の写真学科が戦前からできていく。戦後は大学の写真学科と専門学校という2つに分けられると思う。
大学は4年制で、語学のような一般過程の授業も受けつつ写真の専門教育を受けることになる。専門学校は2年制ないし3年制が多くて、写真の専門教育を集中的に行なっている。就学年数や一般教養の有無という違いはあるけど、写真技術については大きな違いはない。また、80年代後半以降になると、東京藝術大学や武蔵野美術大学、東京造形大学などの美術系大学でも写真を勉強できるような環境ができてきて、美大出身の写真家が増えてきた。現在の写真教育機関は、「大学の写真学科」、「写真専門学校」、「美術系大学」と大きく3つに分けることができる。
よく「写真家になるには写真の学校に行ったほうがいいか?」と聞かれるけど、僕は写真家の道に進みたいのなら写真の学校(専門学校、大学含め)に行くことは、ベストとは思わないけどベターだと思ってる。同じ年頃で、同じ志や問題意識を持ってる仲間が周りに居ることはすごく大事なことだよ。写真についてじっくり考える期間としても、とてもいい環境だしね。写真学校の仲間や先生との出会いは一番の財産になると思う。
写真学生の変化
僕は日芸の写真学科の出身で、1977年に卒業している。僕のいたころの写真学科は学生が100人以上いて、そのかなり多くを占めていたのが写真館の息子だった。それから報道カメラマン、広告カメラマンなど写真を職業として考えている人、また写真を表現方法として、作品を作っていこうというような人たちも、それなりの人数がいたと思う。当時の写真学科に来る人はそういった具体的な目的意識があって入学していた気がするけど、80年代、90年代になるにつれて、目的意識を持って入学するという感覚が崩れてきた感じがするね。たとえば高校時代に写真が好きになって、その延長で写真を学んでいく。つまり、学生生活の何年かを楽しく過ごすために写真系の学校を選んでいる生徒が増えているようだね。
それから90年代以降、大きく変わったことは女子学生がすごい勢いで増えたこと。僕が在籍していた70年代の日芸の写真学科は、女子の割合は10分の1ぐらいだった。ところが90年代以降、その男女の比率が完全に逆転することになる。逆転した理由として、HIROMIX、長島有里枝、蜷川実花などの女性写真家が現われてきたことは大きいと思う。また、ハードウェアの面でも、コンパクトカメラや「写ルンです」などのレンズ付きフイルム、当時流行った「プリクラ(プリント倶楽部)」などが登場したことで、だれでも日常的に写真を撮る環境ができたことも大きな要因だろう。女の子達が「写真を撮ることが楽しい」と気が付きはじめたことにより、「ガーリーフォト(Girly photo : 女の子写真)」ブームが起って、一挙に写真の女性人口が増えた。今の写真学校は、女子学生の比率が多いという傾向はやや落ち着いてるけど、まだ半々くらいか女子の方が多いっていう学校は多い。
現在の写真学校の現状
1990年以降の写真の大きな出来事として、カメラのメカニズムがアナログからデジタルに変化したことが挙げられる。だけど写真学校の教育システムは、その変化に対応しきれてない。デジタル化によって写真の可能性がいろいろ出てきてた。動画と静止画像の区別がなくなってきて、他のメディアと融合していく作品作りの可能性も出てきてた。だから、デジタル作品や動画を制作する生徒も出てきている。しかし、学校側の先生たちはアナログ(銀塩)のシステムの中でずっと育ってきて、今までの教育もアナログでやってきた。だからデジタルを教えられる先生は少ないのが現状なんだ。その状況は写真学校全体の課題だと思う。
しかし学生がどちらを使うかというと、いまでも銀塩のほうが人気が高いんだ。デジタルカメラの普及率と比較しても、圧倒的に銀塩カメラを使う学生が多い。今の学生はデジタルカメラで当たり前に写真を撮っていた世代。「最初に撮った写真は携帯電話だった」みたいな子も入学している。そのような人たちにとって、アナログの銀塩写真は新鮮に感じるらしい。モノクロプリントの作業なんて、科学の実験みたいで面白いんじゃない? 写真学校のメカニズムの遅れについては、教育システムがきちんと対応しきれていないことと、学生が銀塩写真を求めている、という両方の理由があると思う。
どこの学校でも同じ状況だけど、毎年入学者数は長期低落傾向にある。これは写真家という職業や、写真メディアの魅力が伝わりにくい状況なが原因であることは間違いないと思う。現在はアニメ学科とか声優学科に行く人のほうが多いんじゃないかな。広報活動も含めて、学校のシステムを根本的に考え直さないと、ますます写真学校は厳しくなってくると思う。
卒業制作展というシステム
僕は多くの学校から、客員教授や臨時講師など様々な形で教育現場に呼ばれることが多い。学校ではもちろん写真の歴史や、写真家についての講義を行なったりするけど、一番好きな授業は学生の作品を見て講評することだね。卒業や進級のシーズンになる1月~3月ごろにかけては、卒業制作などの講評会に呼ばれることが多くなる。卒業制作展は多くの場合、卒業制作の中から選抜したものを展示している。選抜の仕方は学校によって違って、何人かの先生が点数をつけていく方法や、1人の先生が選んでいる場合もある。選抜された作品は、先生の好みによっても変わってくるから、学生の実力を完全に反映しているかは別にしても、ある程度レベルの高い作品が展示されていることはまちがいないだろう。
前から気になっていたことだけど、卒業制作というシステムは旧態依然で、大正時代から全然変わっていない気がするね。写真システムがアナログからデジタルに変わり、いろいろな可能性を持った生徒が出てきているはずなんだけど、卒業制作を見ると新しい写真表現の気配が感じにくいんだ。卒業制作展とは、学校側としては学生生活の集大成を校外に発表する場であって、いわば学校のショーウインドーみたいなもだから、ラジカルな作品を選びにくくなっているんじゃないのかな。作品の見せ方も、基本的に紙にプリントした状態で発表されるものが多い。学校によってはポートフォリオで提出する学校も増えたけど、それすらない学校もある。たとえば紙以外に写真をプリントした作品や、映像作品は、昔から卒業制作展に出品されることは少ない。むしろ学校が主催する卒業制作展とは別に、学生有志が自主的にやる展覧会のほうが、自由で面白い作品が出品されることが多くなっている。僕は学生主催のような卒業制作を楽しみにしてるんだけどね。
卒業制作を見てて、おもしろくて可能性があると思う生徒は多く見積もって全体の1/10程度。もっと厳しくいえば1/100程度だよ。つまり、学年に1人か2人っていうこと。でも、100人あるいは200人に1人でもいいから、荒木経惟や森山大道みたいな人が出てくれば問題ない。だからといって、卒業してすぐに活躍できるというわけではないけどね。
写真についてと考えていくと、自分の眼で現実の世界をどう見ていくかということが大切になってくる。借り物じゃなくて自分の世界観を持つことができるかどうかが、写真家になれるかどうかの分かれ道だよ。学生の段階でそういう物の見方のシステムができている人はほとんど居ない。僕は学生時代は、そのとっかかりができればいいと思っている。
今回は簡単に写真学校について取り上げたけど、次回は僕が2008年の卒業制作展を見た中から、面白いなと生徒の作品について取り上げてみたいと思う。
飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。
まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)