高いカメラを買って満足してしまう人がいる。しかし、写真家にとって使うカメラはさほど関係ない。むしろ写真家としての在り方が大切だと飯沢は言う。今回のコラムでは、写真家という表現者になるためのヒントを解説する。まずは撮影そのものについて。 (文中敬称略)
写真評論家から見た写真家の資質
趣味として写真を撮っている人は多いし、その中には本気で「写真家になりたい」と考えている人もたくさんいるだろう。写真を撮る、文章を書く、絵を描く、体を使っての表現など、「ものを創る」、「表現する」という行為として捉えると、どれも基本的には同じものだと思う。僕は写真評論家だから、いままで表現者という存在をずっと見続けてきた。もちろん僕自身も、「評論家」という言葉を使う表現者のひとりでもある。自分で言うのもなんだけど、僕は日本で一番写真を見ている写真評論家だと思っている。カメラのメカニズムや撮影テクニックについてはそれほど興味がないし、わからないこともたくさんあるけど、写真家という表現者になるための姿勢や考え方についてなら、他の人より多少はうまく解説できると思うんだ。
写真家になるためには、大きく分けて(1)写真を撮る、(2)作品をまとめる、(3)作品を人に見せるという3つのプロセスがある。まずは最初の「撮影」について考えてみたい。僕が一番伝えたいことは、撮影そのもののテクニックではなくてその前後のこと。つまり、撮影する前の心構えと撮影後にそのことを振り返る時の姿勢なんだ。
初心を取り戻すために「カメラを変えてみる」
初心者の写真は面白いものが多い。写真を始めたころは、誰でもが「写真を撮る」という行為そのものが楽しくて、新鮮な気持ちで撮っている。撮影者の好奇心や感動が、そのままストレートに写っている写真は見ていてやっぱり面白いよ。でもカメラのメカニズムに慣れてくると、「ボケを活かした写真は絞りを開ければいい」とか、「逆光なら露出をプラス補正にすればいい」など、いわゆる「うまい」写真の撮り方がわかってしまう。そうするとワンパターンな撮影スタイルになりがちで、つまらない写真になってしまう人が多い。だから初心を取り戻す方法として、カメラを変えてみることをまず提案したい。
写真という表現手段は、メカニズムが発展するに従って表現も変化してきた。思い切ってカメラを変えてみると、ものの見方や撮影スタイルが変わって、新鮮な気持ちを取り戻すことができるはずだ。例えば大判カメラを使ってみるとする。今のデジタルカメラはずいぶん発達して、6×7の中判カメラぐらいのクオリティは表現できるようになった。だけど4×5や8×10の大判のクオリティの写真はまだちょっと難しいと思う。8×10のフィルムに刻み込まれている視覚的な情報量とその密度はすごいから、大判カメラでしか表現できない作品がある。小さなカットとして使用した場合でも、35mm判カメラと大判カメラでは、物質感や被写体そのものが発する存在感が違ってくる。
また、撮影スタイルも4×5や8×10の大判カメラは、三脚を据えて、ファインダーを覗いて、ピントをきちんと合わせ、露出や構図をしっかり決めてシャッターを切るという撮影の基本を踏まえないとうまく撮影できない。それにシャッターを切る瞬間は被写体を見ることができないから、撮影前にたっぷり時間をかけて被写体と向き合うことになる。手持ちでファインダーや液晶モニターを見ながら撮影するカメラに慣れている人にとっては、被写体とまっすぐに正対して撮る大判カメラの撮影スタイルは新鮮だろう。写真が誕生した19世紀は、みんな大きなカメラを三脚に据えて、被写体と正対して撮っていた。その写真の原点を確認できるはず。1つの方法論に決めつけるのではなく、いろいろなカメラで写真を撮ってみるのもいいんじゃないかな。
例えば、篠山紀信や荒木経惟といった一流の写真家を見てみると、一眼レフ、中判カメラ、コンパクトカメラ、ポラロイドなど、撮影に応じてカメラを使い分けているよね。彼らはカメラを使い分けることで、ものの見方の習慣性を突き崩そうとしているんだ。ものの見方が固定してしまうと、今以上の作品を作ることが難しくなってしまう。よい写真家は、自分の撮影行為の中に、既にできあがってしまったスタイルを壊して再構成していくプロセスを取り込んでいる。もちろん一つのスタイルを突き詰めて、極めていくタイプもいるけどね。それはそれで職人さんのようなこだわりを感じさせる、一つのやり方だと思う。
でも、いい写真家のほとんどはいろいろな側面を持っているものだ。仏像や社会的なドキュメンタリーで有名な土門拳も、戦後すぐには『肉体に関する八章』(1948年 写真撮影叢書)という実験的なヌードなど、いろいろなスタイルの作品を残しているよ。だから、写真表現のメカニズムを知ることは諸刃の剣みたいなところがある。メカニズムを知りすぎると、その奴隷になってしまって、初めてカメラを使った時の感動やワクワク感が薄れてしまう。とはいえ、カメラや暗室作業のメカニズムを頭に入っていないと、失敗したときにその理由がわからない。修正がきかなくなってしまう。写真家に絶対必要なのは、そのメカニズムをコントロールする能力。諸刃の剣をうまく使いこなせないと、写真家としてやっていくのはなかなか難しいだろう。
忘我の状態で撮るために「撮る量を増やせ」
僕はよく写真学生に「撮る量を増やせ」と言っている。森山大道も必ずそう言うね。これはもちろん、量を増やすと経験値がどんどん上がるからだ。写真の絶対量という分母を大きくすれば、自然と良い写真という分子も増えてくる。講義などで何度も「たくさん撮れ」と言っているのは、実際今の学生の撮影量が、ずいぶん落ちているように感じるからだ。もしかするとデジタル時代になって、撮影枚数は増えているかもしれないけど、学生の作品を見ても写真の分母を感じないんだよ。それは考えずに撮っている写真がすごく多くなっているから。撮っている写真も、半径5m程度の身近な場所ばかりで、外に出て人と出会う行動力を感じられる写真が少ない。だからただ撮ればいいと言うものではない。身近な場所を撮るより、外へ出かけたほうが当然経験値が増えるよね。どれだけ行動力があるかで、その後の写真家としての在り方が決まってくる。
素振りを毎日1000回やっても、みんながイチローになれるわけじゃない。イチローは、素振りをしている時、その試合での自分のプレーをふり返り、客観的に見直して、修正点をきちんと把握して、また次の試合に向けて素振りをしているはずだよね。それと同じように、たくさん撮った後、次は撮った写真の中から良い写真を選ぶことが大切なんだ。写真をきちんと選ぶことが、次の撮影に繋がっていく。その作業を繰り返すことで、自分の写真だけでなく他人の写真を見ても、写真の良し悪しがわかってくるようになる。選ぶ作業は機械的にやっても意味がない。自分なりの良し悪しの判断基準を作っていかなければならない。
だけど、実際の撮影の場面では、あまり頭では考えないほうがいいと思う。イチローだって試合前に何千回、何万回も素振りをして練習を重ね、相手選手を研究してるはずだけど、いざ打つ瞬間は忘我の状態じゃないかな。素振りで正しいフォームが体に染みついているからこそ、何も考えていなくても打てるんだ。その忘我状態の質や深さは、試合の前後にどれだけ努力したかで決まってくる。撮影だって同じだよ。被写体の変化に柔軟に対応できる忘我の状態になるためには、素振りをするようにたくさん撮る必要がある。
もうひとつ、良い写真家の条件に「しつこい」ことも挙げられるね。プロの写真家の撮影は、本当に粘り強い。自分の写真に自信や確信を持っている反面、「これで満足していいのか?」、「もっといい写真が撮れるんじゃないか?」と、いつも不満があるのだと思う。基本的に写真に対する飢餓感や貪欲さ、ハングリー精神を持っていることが、良い写真家の資質なんだろうと思う。すぐにあきらめないで粘ってみること。そうすれば、自然に撮る量も増えてくるはずだ。
森山大道 『昼の学校 夜の学校』 2006年 平凡社 |
蜷川実花 『ラッキースターの探し方』 2006年 DAI-X出版 |
飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)、『きのこ文学大全』(平凡社新書)、『戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書)など著書多数。写真分野のみならず、キノコ分野など多方面で活躍している。
まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)