かつての「写真」は男性の趣味であり、カメラを手にしているのはプロ・アマ問わず男性が大多数だった。しかし現在の写真界は、女性の活躍がとても目立っている。写真学校の男女比をみても女子生徒が過半数を占める勢いで、「写真新世紀」のような若手の公募展から、歴史のある「木村伊兵衛写真賞」まで、受賞者の性別は関係なくなってしまった。女性向けカメラ雑誌も次々と創刊されている。今回からの4回は、女性写真家について。(※文中敬称略)
「コウモリをさす島隆像」 ※群馬県立歴史博物館 第81回企画展・島霞谷生誕180周年記念展 『幕末の写真師夫婦 島霞谷と島隆』カタログより |
「カボチャを担いで笑う島霞谷像」 ※群馬県立歴史博物館 第81回企画展・島霞谷生誕180周年記念展 『幕末の写真師夫婦 島霞谷と島隆』図録より |
戦前の女性写真家たち
まず、日本で最初の女性写真家の話から始めようか。幕末に洋学者の島霞谷(シマ カコク)という人がいたんだ。霞谷は江戸幕府の洋学研究期間である開成所に学んだ洋学者で、そこで黎明期の油彩画法を学び、写真術は西洋人から直接学んだといわれている。そして維新後は鉛活字を発明するなど、近代の美術史や化学技術史からみても、非常に意義のある仕事をした人だった。いわば「幕末のレオナルド・ダヴィンチ」みたいな人だね。霞谷の妻であった島隆(シマ リュウ)は、若い頃一橋家に祐筆(書記)としてつかえていたという大変なインテリの女性で、霞谷の研究を手伝っていた。島霞谷の肖像写真が残っているんだけど、それは妻の隆が撮った写真なんだ。彼女は霞谷の死後、桐生の家に霞谷と自分が撮影した写真や遺品を大切に保存していた。つまり、隆が日本初の女性写真家と考えていいだろう。
大正から昭和にかけてアマチュア写真家が出てくると、写真を趣味にする女性も少しずつ増えていったいったけど、本当にごく僅かだった。その中で戦前を代表する写真家のひとりである野島康三が作った「レデイス・カメラ・クラブ」について注目してみたいと思う。当時は西洋の文化の影響を受けた先端的な女性を"モガ"(モダン・ガールを略した言葉)といったけど、そのモガのなかに写真を趣味にする人も含まれていた。野島は写真家であると同時に、芸術のパトロンでもあり、芸術を社会的に広めるための活動も行なっていた。彼がオーナーであった東京・九段下の野々宮写真館の従業員たちの制作のために作られた「野々宮会」、出身校である慶応義塾大学の写真の同士を募って作った「慶応義塾カメラクラブ」、そして1937年に女性だけ同好会として作ったレデイス・カメラ・クラブの指導者として積極的に活動していたんだ。
「レデイス・カメラ・クラブ」は、野島康三の妻である稲子が会長を務め、メンバーに建築家の土浦亀城(キジョウ)の妻の土浦信子、美術評論家の富永惣一の妻である富永芳子など、夫が文化的な活動をしていている人が多かった。また、自身が登山家であった黒田米子や、野島の助手を務めた松永(佐藤)田鶴江などもメンバーにいた。彼女たちに共通して言えることは、新しく高い教育を受け、比較的裕福な階層の出身者たちということ。それまでの和歌的な教養とは違う、新時代の自分にふさわしい表現言語として写真を選んだといえるだろう。
戦前の女流写真家の走りのひとりである山沢栄子(1899年-1995年)は、14歳から写真を始めて、女子美術学校日本画科を卒業した後に、アメリカに渡って本格的な写真を学ぶんだ。彼女は帰国してから大阪で商業写真のスタジオを開きながら、独特の抽象写真を撮っていた。彼女は、戦前から80年代くらいまでずっと精力的に活動を続けていて、生前何度か個展も開催されたことがある。
しかし一般的に戦前までは、写真は圧倒的に男性が"撮る側"で、女性が"撮られる側"という図式だった。大きな理由として女性の社会的な地位や経済的な理由、つまり女性は家庭を守ることが当たり前で、趣味を持つこと自体が許されていなかった風潮などがあった。また、カメラのメカニズムが、機械を扱い慣れていないと難しかったことも考えられる。昔のカメラやプリント作業はものすごく大変で、かなり勉強してないと男性でもなかなかきちんと扱うことはできなかった。もちろん当時の女性だって写真のメカニズムに強い人はいたと思うけど、電化製品がない時代の女性は、機械に触れたりする訓練は受けてない。心理的、物理的に"写真をやる"ことには距離があったのだろう。
土浦信子 題名不詳 1930年前半 ※渋谷区立松濤美術 能島康三とレディス・カメラ・クラブ展図録より |
山沢栄子 「What I am doing No.62」(1986年) ※伊丹市立美術館 山沢栄子展図録より |
山沢栄子 「What I am doing No.72」(1986年) ※伊丹市立美術館 山沢栄子展図録より |
戦後の女性写真家 1950-1960年
戦後になり写真の大衆化が進むとようやく女性でも撮影できるという雰囲気が広がり、1950-60年代くらいになると女性写真家も少しずつ登場し始める。当時、活躍した女性写真家のひとりである常磐とよ子は、『危険な毒花』(1957年 三笠書房)という代表作を残している。これは横浜の赤線地帯(公認で売春が行われていた地域の俗称)の女性たちを体当たりでドキュメントした作品なんだ。赤線には性病などの問題があるので、政府がコントロールしていたんだけど、『危険な毒花』には赤線の女性たちが病院で検査を受けている写真も含まれている。普通のカメラマンでは撮れないような写真だけど、常磐は若い女性の写真家という立場を活かして、モデルになった女性たちと親しくなり、ようやく取材することができたんだ。『危険な毒花』はかなり話題になりマスコミに取り上げられ、常磐の存在も世の中に知られるようになる。彼女は東松照明、奈良原一高、細江英公らが1959年に結成した写真家グループ、VIVOの前身になる第1回「10人の眼」展(1957年)にも出品しているね。彼女はその後も、舞子さんや女学生、沖縄の女性たちを撮ったり、マレーシアや台湾などの海外の取材や、老人問題などをテーマとして、ずっとドキュメンタリー畑で活動を続けていったんだ。
同時期には今井寿恵も登場している。今井は幻想的なファンタジックなイメージを写真で表現する作家だった。「ロバと王様とわたし」(1959年 月光ギャラリー)や、「オフェリアそのご」(1960年 小西六ギャラリー)など、物語的な発想の写真を発表して話題になる。作品の傾向としては、カラー写真を早くから取り入れて、実験的なフォトモンタージュなども作っていた。今井も若い女性写真家ということで、その新しい表現スタイルが注目された。しかし、交通事故により失明の危険にさらされて約3年間写真活動を中断してしまう。その後、馬というテーマと出会うことで活動を再開し、その後は実験的な作品ではなく、競争馬を中心としたドキュメンタリーを撮るようになる。
また最近になって注目されるようになった岡上淑子という作家がいる。彼女は美術評論家の瀧口修造と出会い、1950年代前半のわずか数年間という短い間に、瀧口が企画を担当していたタケミヤ画廊で、完成度の高いコラージュ作品の展覧会を開催している。しかし彼女は57年に画家の佐野一友と結婚すると、制作から遠ざかってしまう。1950-60年代の先駆的な仕事をしている女性写真家を見ていくと、作家として発展している途中で消えてしまっている人が多かった。同世代の石元泰博、東松照明、奈良原一高、細江英公、川田喜久次などの男性写真家に比べると、残念なことに女性写真家は写真家としての生命力がやや弱い印象を受ける。
常磐とよ子 「真金町診療所」(1959-60年) ※山口県美術館 「写真の1955-65 -自立した映像-」展図録より |
常磐とよ子 「赤線地帯シリーズ」(1955年頃) ※山口県美術館 「写真の1955-65 -自立した映像-」展図録より |
今井寿恵 「王様とロバとわたし」(1958-59年) ※山口県美術館 「写真の1955-65 -自立した映像-」展図録より |
今井寿恵 「王様とロバとわたし」(1958-59年) ※山口県美術館 「写真の1955-65 -自立した映像-」展図録より |
岡上淑子 「沈黙の軌跡」(1958-59年) ※第一生命南ギャラリー 「岡上淑子:フォトコラージュ -夢のしずく-」展図録より |
岡上淑子 「彷徨」(1958-59年) ※第一生命南ギャラリー 「岡上淑子:フォトコラージュ -夢のしずく-」展図録より |
女性写真家の認知を広がった70-80年代
1970-80年代になると、フェミニズムやウーマンリブのような運動が活性化してくる社会的な状況の中で、女性写真家が次々に登場してくる。その代表的な作家が石内都や武田花や今道子だね。彼女たちは、石内が第4回(1978年度)、武田が第15回(1989年度)、今が第16回(1990年度)と、全員木村伊衛兵写真賞を取っている。こうしてみると、木村伊衛兵写真賞はわりと早い段階から女性写真家をフォローしていたことがわかるね。
女性で初めて木村伊兵衛写真賞を受賞した石内都は、女性、男性という性別を抜きにしてもスケールの大きな仕事をしてきた日本を代表する写真家の一人だね。プライベートな自分の記憶や生理的な感覚と、社会や歴史などのパブリックな問題を結びつけようという意識が強い作家なんだ。去年(2008年)、『ひろしま』(2008年 集英社)というすばらしい作品を作って、毎日芸術賞を受賞している。彼女は70年代から現代に至るまで、ずっと独自の手触り感を備えた作品世界を自分の中で確立していこうとしてきた。戦後すぐの女性写真家もそうだけど、女性が写真家として認められるのは、外に向かっていく行動力が必要とされるドキュメンタリーの領域ではなくて、自分の内面世界を確立して形にして出していく作家の方がやりやすかったのかもしれない。国際的に見ても、最近ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館での個展(2005年)をはじめとして、ヨーロッパやアメリカでたくさん個展が開かれていて、とても注目を集めている。
石内都や武田花、今道子の活躍によって女性写真家の存在が大きくなったとはいえ、写真を職業にしようとする女性はまだまだ少なかった。僕は1973年に日大の芸術学部の写真科に入学して77年に卒業しているんだけど、その頃は50人くらいのクラスに女性は5-6人と、1割もいなかったからね。その状況が大きく変わってくるのが1990年代以降のいわゆる「女の子写真」や「ガーリーフォト」と呼ばれる、若い女の子たちがどんどん写真を撮って発表し始めるブームがやってきてからなんだ。次はこのブームついて解説していこう。
飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。
まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)