2008年10月30日から11月16日までの間、『テグ写真ビエンナーレ2008』が開催された。メーン会場には、「韓国・中国・日本現代写真展」が企画され、各国のキュレーターがパートごとにテーマを決め、選出した写真家の作品を展示した。今回は日本のパートのキュレーションを担当した飯沢が日本のパートについて語る。(文中敬称略)
デジタル時代における身体イメージ
僕が担当した日本のパートの写真家を選ぶとき、今回の展示では、いわゆるドキュメンタリー系やスナップショット系の写真は外そうと思ったんだ。もちろんそのような写真を入れてもいいんだけど、パートの統一性がなくなって見る人が混乱してしまうからね。だから、初めから現代美術寄りの構築的な写真を展示の中心にしたいと考えていた。それから、主に2000年代以降に登場してきた人たち、とくに若手作家の作品を中心に紹介したかった。構築的な写真でも、1つのテーマが必要なので、今回は「デジタル時代における身体イメージ」というテーマを立てることにしたんだ。
なぜ「デジタル時代における身体イメージ」というテーマを選んだかというと、1990年後半以降、日本では従来のアナログ(銀塩)写真に変わってデジタル画像を制作に使う写真家が急速に増えてきた。撮影機材であるカメラは、その作品の内容にも大きな影響を及ぼしていく。僕は、今までも写真家にとって重要なテーマになる"身体"に関わるイメージが、デジタル時代においてどのように変わっていったかを考えたいと思った。
デジタル画像は、非物質的なデータの集積であって、(1)画像を自由に変更・合成できる「改変性」、(2)その場で画像が確認できる「現認性」、(3)画像を大量に記録、保全できる「蓄積性」、(4)インターネットで画像を簡単に送受できる「相互通信性」、(5)画像を消去できる「消去性」という大きな特徴があるんだ。もしそのあたりについてもっと知りたかったら、僕の『デジグラフィ』(中央公論新社、2004)という本を読んでほしい。
すぐに目に付くのは、物質的な身体性ではなく、記号のように置き換え可能な身体イメージが出てきたことだね。つまり身体のパーツを置き換えたり、作り手が望むシチュエーションにはめ込んだりすること。日本のアーティストなら、西洋の名画の登場人物に成りきるセルフ・ポートレートを作りあげる森村泰昌は、デジタル画像の特性を活かした典型的な例だよ。デジタル時代における身体イメージは、むろんこのような記号化、非物質化の影響を被っている。だけどデジタル化によっても、身体をテーマにした作品に必然的につきまとってくる喜怒哀楽の感情、傷み、死への恐怖、性的なエクスタシーなどを呼び起こしたり、よみがえらせたりする力は失われていないと思う。逆にむしろ、デジタル化によって拡散し、希薄になっていく身体性を取り戻し補強することを目指しているように思える写真家も登場してきている。
デジタル時代の写真家たちは、さまざまな表現の技法を駆使して、僕たちの身体がどのように生成、変化しようとしているのか、また、その変化が僕たちの精神世界にどのような影響をおよぼしつつあるのかを探り出そうと模索している。今回の展示ではそのような写真家というか、むしろ写真を使うアーティストとして、やなぎみわ、澤田知子、鷹野隆大、内原恭彦、屋代敏博、櫻田宗久、野村浩、安楽寺えみ、高橋万里子、うつゆみこ、元木みゆき、高木こずえの12名を選出した。本当は、志賀理江子と田口和奈にも出品をお願いしたんだけど、忙しいということで断られてしまった。「デジタル時代における身体イメージ」というテーマに、志賀はとくにピッタリだと思ったんだけど、残念だったね。でも他の写真家たちが快諾してくれたので、ほぼ僕の意図は実現できたと思う。
記号化された身体イメージを合成したり増殖させたりする、やなぎ、澤田、屋代、櫻田、野村らの作品。制御不可能な感情や性的なエクスタシーの表出にこだわる鷹野、内原、安楽寺、高橋らの作品。それにまだ国際的な舞台での経験があまりない若い世代のうつゆみこ、元木みゆき、高木こずえの作品をきちんと紹介できたことは、本当に良かったと思う。
空間構成力に優れる日本人作家
前回にも話した韓国、中国の写真家と日本の写真家の特徴の違いについては、展示前の準備段階から感じられたんだ。日本人の写真家は12人中8人が会場に来ていて、壁面に自分の手で作品を設置していく作業をした。鷹野は他の展覧会の準備があったので、かわりに展示の専門の人が来ていた。でも、自分自身で作品を展示する作家は、韓国、中国では少なかったね。彼らはフレームに入れた作品を会場に送って、展示プランニングの図面を出してそれでおしまいなんだ。つまりインスタレーション(作家の意向に沿って空間を構成し、場所や空間全体を作品として体験させるやり方のこと)に対する意識の持ち方というのが、日本人の作家たちは非常に細やかで丁寧だと感じたね。作品を空間の中にどのようにインスタレーションしていくのかということを、日本人のアーティストは80年代の終わりからずっと鍛えてきた。中国や韓国は現代写真のジャンルが90年代になって急に現れて、最近になってようやく写真が作品として売買されることが非常に盛んになってきている。そのあたりの違いが作品の展示に対する姿勢に現れているのだと思う。
できあがった会場を見てみたんだけど、韓国のブース、中国のブースと比べると、日本のブースは非常にきちんと構成されているように感じた。僕の聞いたかぎり観客の反応も日本のパートのインスタレーションは評判が良かった。逆に韓国と中国の作品は、やや荒っぽい展示だけれども、非常に大きくてスケール感があって、気持ちが良く目に入ってくる。その質の差から国民性の違いが見えてくるんだよね。特にそれを強く感じたのは、安楽寺えみと野村浩の作品だった。
安楽寺の作品は、全部で500枚くらいあるんだけども、そのA3判くらいのプリントを助手2人を使って、1点1点、マスキングテープで壁に貼っていく。もちろん展示の大ざっぱな構成は頭の中にプランニングがあるんだけど、テグの会場にあわせてまるで刺繍のようにその場で作っていく部分もあった。その作業の進み具合を見ているととても面白かったね。最初のプランニングがあっても、会場に行ったらそこに合わせた配置にプランを変え、空間を全体としてのひとつの作品に作り上げていくんだ。
野村は元から床にも展示しようと計画していたんだけど、会場の床に電気配線などがあって、それに黒いゴムのカバーみたいなものがかけられていたんだ。それは見方によっては格好悪い。ほかの国の会場では、それを外したり床に近い別の色にしたりしたんだけど、野村はそれが逆に面白いといって、カバーの上に彼の作品のシンボルである「目玉」を貼り付けて、作品の一部としてインスタレーションを作り上げた。そのあたり、彼の会場の特性を逆に利用するような意識の働かせ方が面白かったね。思考回路がすごい柔軟なんだ。彼もジャズのインプロヴィゼーションのように、会場の空間と対話しながら作品を設置していた。
会場には来られなかった澤田知子は、「これくらいの大きさのケースを作って、このくらいの角度で作品を並べて、こういうふうに展示してほしい……」などと、ものすごく細かな指示が書かれたプランニング図面が作品と一緒に送られてきた。作家が立ち会えなくても、その意図を反映するために最大限力を注いでいることがよくわかるよ。韓国スタッフは、指示通りにケースを作るのにすごく苦労していたけど、最終的にはなんとか澤田が意図したとおりに展示することができた。
日本人の柔軟なインスタレーションの能力は、アメリカやヨーロッパの作家達と比べても優れていると思うから、これは日本人の強みだといってもいいだろう。あらためて、彼らの空間構成能力、インスタレーション能力の緻密さ、丁寧さを感じて、これは日本人作家の良い武器になると確信したね。これからも色々な場所で展示があると思うけど、ただ作品を持っていって作品を飾るんじゃなくて、空間として作品を見せるという細やかな神経の働かせ方が絶対に必要になってくるだろう。
僕が見ている限り、今回選んだ12人の作品はとても充実していたと思う。会場で作品を展示し終わった後、我ながら「これを日本に巡回できたら本当に面白いだろうなぁ」って思ったくらいだったからね。
飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。
まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)