報道写真を語るうえで、写真家集団「マグナム」の存在を抜きにすることはできないだろう。また飯沢は、報道写真を見る私たちに、受け身ではなく、「写真を読み解く力」をつける必要があるという。今回は写真家集団「マグナム」と、写真を見る読者の姿勢について解説していただいた。

「現代社会の問題」の部 組写真1位 ジャン・ルヴィヤール 「移民の小屋」

国際的写真家集団「マグナム」の設立

1950年から60年のフォト・ジャーナリズムの黄金期には、写真家集団「マグナム(MAGNAM PHOTOS)」の存在はとても大きかったね。マグナムは、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、デビッド・シーモア、ジョージ・ロジャーの4人が集まって、1947年に"写真家のためのエージェンシー"として設立された。

報道写真家にとって、自分の写真の使われ方は非常に大きな問題なんだ。戦前、それらの権利意識がはっきりしていなくて、報道写真家は写真を撮るだけの存在だった。撮られたフィルムは、エージェンシーや出版社によって勝手にトリミングされたり、写真家がキャプションを付けてフィルムを渡しても、改ざんされて掲載されたりした。最悪の場合、色んな雑誌に使われるだけ使われ、掲載料がカメラマンに払われないなど、多くのシビアな問題が発生していた。だからキャパ達は、写真家の権利と自由を守り、主張することを目的としてマグナムを設立したんだ。同時に、報道写真には取材費として莫大なお金がかかる。そのお金を会員が出資して運営することで、経済的に大変な仲間達を助けていくためのシステムをとっている。

マグナムは会員制だけど、正会員、特派員、寄稿家、準会員、候補生と細かく分かれている。マグナムに写真家として所属するには、まず会員の資格を取らなくてはいけない。だけど会員になるにはとても大変で、推薦は当たり前だけと、ポートフォリオを提出して、他の会員から認められなければいけない。正会員は本当に一部の限られた人だけだよ。

マグナム会員の作品を見ていると、芸術派と報道派の対立が常にあった。つまり、写真を自分の作品として撮っていく意識が強い写真家たちと、出来事を記録し伝えようとする意識が強い写真家たちだね。一見、両極端な感じもするけど、その両者が対立しつつも尊敬しあって、ダイナミックに動いていくことでマグナムという団体がうまくまとまっているんだと思う。それを代表しているのが、創立会員でいえばロバート・キャパと、アンリ・カルティエ=ブレッソンだね。

キャパの写真は現場主義。写真を見ても、決して上手な写真と呼べるものではなくて、ブレたり構図もバラバラだったりする。しかしその写真はリアリティーがとても強くて、見ている我々はキャパが見たものに直接向き合っているように感じる。キャパという存在を通じて、戦場などの生々しい現場を知ることができるんだ。対してブレッソンの写真は、世界を鳥瞰的に見下ろしているような視点が特長だね。アースティックな意図を持っていて、完璧な構図で撮ろうという強い意志を感じる。もともと彼は画家志望だった。僕が思うに、カルティエ=ブレッソンのような人と、キャパのような人の両方がいるからこそマグナムという団体の面白さがある。

もともと「報道写真」という言葉は、「ルポルタージュ・フォト」という言葉の訳語で、直訳すると「報告する写真」なんだ。しかし報告には写真家の主観や個性が強く関係する。そこに逆に報道写真の持っている可能性があると思うんだ。だからどこまでが報道写真で、どこからは違うのか、報道写真を定義づける線引きは難しいよ。報道写真は、起こった出来事を人に伝えていく」という意志が写真家にあって、それをどんなふうに形にしていくのかという方法論がきちんと成立していることが大きな条件だろうね。

写真を見る読者側の意識

報道写真を扱う媒体について考えることも大切だよ。報道写真の中心的な媒体は雑誌や新聞のようなメディア。だから、世界報道写真展のように美術館で見るということは、かなり特殊な例と思っていい。メディアを通して、写真家の眼を通した現実がきちんと読者に伝えることが報道写真の基本だから、写真家と読者の間にいる出版社や編集者の役割はすごく重要だよ。写真は編集者が正しく伝えようという意志を持っていないと、スキャンダルに見えてしまったり、別の意味に誤解されたりする可能性が高い。写真家、編集者(出版社)、読者という情報の回路が正しく機能する必要がある。

また、報道写真は写真家の主観で撮られているから、受け取る読者は写真を鵜呑みにはしてはいけないと思う。つまり、「写真を読み解く力=リテラシー」という問題だ。文章の場合、日本語の文法がわかっていなければ読み解くことはできないでしょう? 英語だったら英語の単語や文法がわからないと理解できない。写真の場合でも、最近になって「フォト・リテラシー」の大切性が言われ始めている。撮影された写真のバックグラウンドや、被写体に対して写真家が撮影している立場などを知らないと、全く違って見えてしまうことがよくある。写真を読み解くことは、難しいけど重要な問題なんだ。このことについては、最近『フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理』(今橋映子著、中公新書)といういい本が出たから、ぜひ読んでほしい。

『フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理』 今橋映子著、中央公論新社/中公新書

一番怖いのは、写真をすごく情緒的に見てしまうこと。表面的なイメージだけでショックを受けて目を背けてしまったり、反対に良い写真ということでシンパシーを持ちすぎて溺れてしまうことは、あまり好ましいことではない。写真を見るときには距離感が必要なんだ。距離感を持って見るには、たんなる「知識」ではなく「知性」が必要になってくる。知性とはなにかと聞かれると難しいけど、経験や常識などを含めたうえで、自分なりの見識を持つことだと思う。その知性を身につけるのは簡単なことじゃないよ。僕は写真を読み解く訓練を小学校や中学校などでやってもいいと思う。例えば写真を使ってストーリーを作る授業とかね。そうすると1枚の写真でも、いろんなストーリーを付けることが可能だと気がつくはずだよ。逆に1つの見方しかできないと、いかに危ないかがよくわかる。そのような積み重ねで写真を読み解く力は付いていくと思う。

写真を情緒的に見てしまった有名な例を挙げると、ピューリッツァー賞を受賞したケヴィン・カーターの「ハゲワシと少女」(1993年)の写真は典型的だと思う。これは、餓えでやせ細った女児の横にハゲワシが女児を狙っている状況を撮ったもの。あの写真を情緒的に見てしまうと、「今にも襲われそうな女児が目の前にいるのに、カメラマンはなにをしていたんだ!」と短絡的な発想に結びついてしまう。しかし、それで終わっては意味がない。あの写真は内戦が続いているスーダンで撮られたもので、イスラム教の北側の勢力とキリスト教の南側の勢力との宗教戦争が背景にある。もちろんそれは北側は豊かで、南側は貧しいという経済紛争でもある。スーダンではその2つの問題が複雑に絡み合っていて、悲惨な状況が起こっている。だけど、そのようなバックグラウンドを、あの1枚の写真から読みとることはできない。だからそのことを知っているか知っていないかで、あの写真の見え方は大きく変わってくるはずなんだ。そこら辺は、きちんとした知性を身につけていないと厳しいと思う。

悲惨な状況の写真になると、カメラマンは助けるべきか? それとも写真を撮るべきか? とよく議論されるけど、僕はそれについて明解に考えていて、カメラマンは撮るべきだと思っている。そして撮ったら発表するべきだと思う。余裕があれば助ければいい。この議論は、助けるか? 撮るか? という二者択一にしてしまうことに問題がある。違うレベルのことを同じ土俵で論じることがそもそも間違っているんだよ。理想的なことをいえば、両方ともやるべきだよ。レベルが違うことを混同しては駄目。最悪なのは、リビングルームなどの安全な場所で雑誌やテレビを見て、カメラマンは助けるべきだと非難している人だね。そんなことを言える立場なのか? と逆に問いたいね。

世界報道写真大賞2007「スポーツアクション」の部 組写真3位 クリス・デトリック 「バスケットボールの試合」

米国ユタ州プロボで開かれたバスケットボールの試合で、ペッパーディン大学のジェイソン・ウォールバークの指が、ブリガム・ヤング大学のジョナサン・タベルナリの目に突き刺さった。ファウルはとられなかった。タベルナリはこの直後のシュートを外したが、けがはなく、その後連続してスリーポイント・シュートを決め、86対67でチームの勝利に貢献した

世界報道写真大賞2007「現代社会の問題」の部 単写真1位 ブレント・スタートン 「マウンテンゴリラの死体の収容」

コンゴ民主共和国東部のヴィルンガ国公立公園のレンジャー(保護観察員)が、森で射殺されたマウンテンゴリラ4頭を運んでいる。絶滅の危機にあるマウンテンゴリラは、紛争が絶えない地域に生息している。反政府勢力の指導者は、コンゴ政府がソツ族率いる「ルワンダ民主解放戦線(FDLR)」と協力していると非難している。FDLRは1994年のルワンダのツチ族虐殺に関与したとされる組織。反政府勢力はこの地域に潜伏していると見られるFDLRの民兵を追ってヴィルンガにやってきた。ゴリラを殺しているのが、何者かは明らかにされていないが、ルワンダの虐殺のときの人間に対する処刑と似た形で多くが殺されている。肉が食べられている場合もある。世界に残るマウンテンゴリラは約700頭と見積もられ、その半数以上がヴィルンガに生息しているが、2007年に少なくとも9頭が殺された。ゴリラの保護に努める監視員も攻撃されることがある

世界報道写真大賞2007「自然」の部 組写真2位 ポール・ニックレン「北極の牙、イッカクの捕獲」

北極圏に生息するクジラの一種、イッカクの牙はかつてはユニコーンの角として売られ、非常に重宝されていた。現在も高額の収入につながり、イヌイットには狩猟が法的に認められている。写真はカナダのヌナヴートで撮影されたもの。イッカクは、海面に浮上して、肺に空気がいっぱいになったときに殺さなければならない。そうしないと水中に沈んでしまい、引き上げられなくなるからだ。ハンターは氷の端まで行って、引っかけフックで引き上げる。伝統的な捕獲道具に代わってライフル銃を使用するようになり、回収される以上の数のイッカクが殺され、傷つけられている。調査団体により数字は異なるが、銃で撃たれた30-70%が、そのまま海に残されている

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)