今回の世界報道写真展を見ると、報道写真のあり方が変わってきたと飯沢氏はいう。本来の報道写真とはどのようなものだったのだろうか? 報道写真の2回目は、有名なグラフ雑誌『ライフ』を中心に、報道写真の歴史を振り返ってみる。

「スポットニュース」の部 組写真1位 ジョン・ムーア 「ブット元首相の暗殺」

報道写真と技術発達の関係

写真は1839年に誕生した直後くらいから、記録の手段として使われてきたんだ。報道写真ということで考えてみると、一番大きな出来事はやはり"戦争"だった。初期の戦争写真では、クリミア戦争(1854年-1856年)を撮ったロジャー・フェントンや、南北戦争(1861年-1865年)を撮ったアレキサンダー・ガードナー、ティモシー・オサリヴァンといった写真家たちがいる。当時は湿板写真の時代で、大きな箱のようなカメラに三脚を付けて撮影するスタイルだったから、生々しい戦場の様子を撮ることはできなかった。だから初期の戦争写真は、戦いが終わった後に戦場での記念写真のようなものを撮るしかなかったんだ。

報道写真の成立には、印刷技術や撮影機材の発達が大きな役割を果たしている。1880年代から90年代にかけて写真の印刷の仕方が変わってきて、当時はハーフトーン(網点)印刷と呼んでいたけど、現在でいうオフセット印刷が登場する。ハーフトーン印刷は写真を文字と一緒に、しかも大量に印刷できた。それ以前は、写真を直接印刷できなくて、いちど版画にしてから印刷していた。写真と文字が同時に印刷できることは画期的なことだったんだ。ハーフトーン印刷が誕生すると、新聞や雑誌に写真がどんどん使われるようになった。

また、カメラの小型化も重要だった。カメラが小さくなることで三脚撮影から手持ち撮影に撮影方法が変わった。また感光剤が乾板というガラスを使う方法からフィルムに変わってくる。1925年にエルンスト・ライツ社というドイツの顕微鏡メーカーから映画用の35mmフィルムを使って連続撮影が可能な小型カメラ「ライカA型(I型)」が発売された。このカメラはとても画期的で、写真家が戦場のような生々しい現場に出かけて、状況を素早く、正確に撮影できるようになったんだ。

カメラや印刷の技術が発達すると出版社の意識も変化して、テキストとイラストが中心だった紙面に、ストレートなイメージが伝えられる写真が使われるようになっていく。こうしてフォト・ジャーナリズムと呼ばれる報道写真のあり方が誕生したんだ。

Prototype I(1923年)。1925年に発売された35mmフィルムを使用する小型カメラ「ライカ」のプロトタイプ。自然光で高速シャッターによる連続撮影を可能とした

湿式カメラの時代。ロードアイランド州、ボータケット付近のプロヴィデンス・ウスター鉄道の列車横転事故(左)、1853年8月12日。南北戦争の英雄ジョージ・アームストロング・カスター将軍(右)、1864年頃。 ※『世紀の瞬間展 報道写真はリンカーンに初まった』図録より

湿式カメラの時代。ロシアの南下政策に端を発したクリミア戦争でのイギリス第13軽騎兵連隊(左)、1856年頃。南北戦争でアンティータムの戦場におけるリンカーン大統領(右)。 ※『世紀の瞬間展 報道写真はリンカーンに初まった』図録より

フォト・ジャーナリズムの創成期記

フォト・ジャーナリズムの原型ができあがったのは、1920年代のドイツ。ドイツのウルシュタイン社という出版社は、写真が印刷できることの重要さにいち早く気づき、『ベルリン画報(ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥング)』というビジュアル中心の雑誌を出版する。この『ベルリン画報』を舞台に、エーリッヒ・ザロモン、マーチン・ムンカッチ、アルフレッド・アイゼンシュタットらの写真家が、生き生きとしたルポルタージュ・フォトを発表していった。この『ベルリン画報』からフォト・ジャーナリズムが始まったといっていいだろう。『ベルリン画報』は1920年代後半には200万部を超えるほどの大量の発行部数の雑誌に成長していった。

しかし1933年にナチスが政権を取り、ドイツのフォト・ジャーナリズムは全部壊れてしまうんだ。ナチスはファシズムを主張して言論弾圧を始める。また、ユダヤ人が中心だったウルシュタイン社の経営陣を全て取りかえ、ユダヤ人や外国人の写真家の活動も制限してしまう。ウルシュタイン社の契約カメラマンには日本の名取洋之助もいた。名取はドイツに留学して、ウルシュタイン社の契約カメラマンとなり、東アジア特配員として活動していたけど、ナチスが政権を取ったことでドイツに帰れなくなってしまった。しかたなく日本に残った名取は、「日本工房」を作って、報道写真の啓蒙活動を始めるんだ。このように、ヒットラーが政権を取ったことで、ドイツでフォト・ジャーナリストとして活動をしていたカメラマンや編集スタッフが、世界各国に散らばっていった。

『ハーバーズ・ウィークリー』誌に掲載された木版画(左)。アメリカ南北戦争でのゲティスバークの戦いの後に撮影した3枚の別々の写真を組み合わせて制作された。右ページは3枚の写真のうちの2枚。「狙撃兵の最後の眠り」(上)と「レイノルズ将軍がたおれた戦場」(下) ※『世紀の瞬間展 報道写真はリンカーンに初まった』図録より

『ハーバーズ・ウィークリー』誌に掲載された木版画の拡大部分。ハーフトーン印刷が発明される前は、写真から版画に起こして印刷された ※『世紀の瞬間展 報道写真はリンカーンに初まった』図録より

ジェイコブ・リースの写真をもとにケニョン・コックスが制作した「ニューヨーク、ベイヤード街の木賃宿で雑魚寝をする宿泊者」(左)、1890年。ハーフトーン印刷の発明により写真と文字が一緒に印刷できるようになった。「ニューヨークの貧民街の風景」(右)、1880年3月。 ※『世紀の瞬間展 報道写真はリンカーンに初まった』図録より

世界最大級のマンモス雑誌 『ライフ』の創刊

アメリカには『ベルリン画報』の編集長だったクルト・コルフ、カメラマンのマーチン・ムンカッチ、アルフレッド・アイゼンシュタットが亡命した。そこでコルフはタイム社の経営者であるヘンリー・ルースに依頼されて、新しい大衆向けグラフ雑誌『ライフ』の基本的な計画(指針)を立ち上げる。コルフはヘンリー・ルースと折り合いが悪く、誌名が決まる前の準備段階で辞めてしまった。でも基本的な編集方針や『ライフ』のスタイルを作ったのはコルフだと思っていい。彼は『ライフ』の中心になるアイゼンシュタットやマーガレット・バーク=ホワイトをカメラマンとして連れてきている。コルフは去ってしまったけど、優秀なカメラマンや編集スタッフの手によって、1936年11月に世界最大のグラフ雑誌に成長する『ライフ』が創刊するんだ。コルフが書いた『ライフ』の創刊予告文章の一節は、『ライフ』の精神をよく示しているね。

「すべて見ることであり、見ることに喜びを見いだすことである。いいかえれば見て驚くことであり、見て学ぶことである。見ること、見せてもらうことは、人間の意志と期待の一半である。すなわち自身で見て、そしてこれを人にしめすのが本誌の使命である。」

この一節は、世界中のあらゆる出来事を視覚的に翻訳し、わかりやすく伝達しようということを宣言している。つまり「見る」という歓びを求める大衆の欲望に応えようと言っているんだ。以後、「自身で見て、それを人に示す」ことがフォト・ジャーナリズムの最高目標になる。

『ライフ』の紙面構成は、フォト・エッセイやピクチュア・ストーリーと呼ばれるもので、写真(イメージ)と言葉(文字)を一体化させて物語(ストーリー)を編み上げていく方法が取られている。写真は複数の写真を使用することで、複雑なメッセージや象徴的なイメージを伝えることができる。それと同時にイメージから勝手に広がっていく連想を言葉が限定することで、記事の内容を方向づけていく。これは写真を一種の言語として使いこなすことを実現する方法だった。この方法は大衆にも広く受け入れられ、『ライフ』はあっというまに急成長していく。戦後の1940-50年代は報道写真の全盛時代で、W・ユージン・スミスに代表される優秀なカメラマンがどんどん登場した。この時代には写真が時代を動かすということが実際にあったと思う。『ライフ』は発行部数を伸ばし続け、1967年には国際版を含めて800万部を達成するんだ。

『ライフ』の廃刊

1967年に800万部という空前絶後の記録を作った『ライフ』だけど、1972年12月に休刊してしまう。雑誌にとって、広告が重要な収入源なのはいまも昔も変わらない。『ライフ』は、世界中にカメラマンを派遣し、長期取材をして写真を撮るから、制作コストがものすごくかかった。それをカバーするために広告収入に頼っていた。ところが60年代の終わりぐらいから、広告を出す企業が雑誌からテレビへシフトしてしまった。これは大きな痛手だよ。それと『ライフ』は定期購読者に郵送されていたんだけど、郵便料の値上げも大きく響いたらしい。

広告収入とか郵便料値上げなどのいろんな原因があったけど、廃刊の一番大きな原因は価値観の多様化だと思う。60年代は人々の考え方が多様化して、たとえばキリスト教に基づいたヒューマニズム的な写真を載せれば、大衆は受け止めてくれるという共通の基盤が壊れはじめるんだ。その理由としてはベトナム戦争が大きかった。以前の戦争には、ヒットラーなどのファシズムが悪で連合国が善という、非常に明確な価値観があった。だけどベトナム戦争は、どちらが正義かがとてもわかりにくい戦争だった。そうすると戦争を伝える『ライフ』の誌面も、編集の仕方がとても難しくなる。そのあたりが読者にも敏感に伝わってしまうんだろうね。

ベトナム戦争以後には、「どちらの立場で戦場を撮っているのか?」が常にカメラマンに問われるようになる。つまり、ベトナム解放戦線をアメリカ軍の後ろから撮っているだけじゃないのか? と、よく言われたんだ。画一的なイデオロギーに対して疑いが持たれ始めるなか、写真の伝達力が相対的に弱っていのだと思う。『ライフ』はアメリカの正義を代表するような雑誌だったから、価値観が揺らいでくるような状況の中で、発行部数がどんどん落ちてしまい、最後には休刊することになる。その後、月刊誌などスタイルを変えて何度か復刊するんだけど、結局、全盛時代に戻ることはできず、現在も休刊状態になっている。しかし、また復刊する可能性はあると思うよ。例えば「Web版 ライフ」とかね。『ライフ』は伝説的なブランドになっているから、それを生かすことはあるかもしれない。しかし、40-50年代の黄金時代の輝きを取り戻すことは難しいだろうね。

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)