森山大道は1970年代の大スランプを乗り越え、80年代に写真家として復活した。写真撮影の行為の原点を確認した彼は、90年代に「Daido Hysteric 三部作」という大傑作を発表する。森山大道シリーズの第3回目ではその軌跡を追うとともに、写真の表現において「量を撮る」ことがいかに大事かを、実例を引いて話していただいた。

『大阪+』より

スランプからの復活

森山大道さんは大スランプに陥っても、基本的には写真を撮る行為をやめなかった。写真家は誰でもそうだと思うけど、写真を撮ることで自分の存在理由を確かめていくからね。スランプから脱するきっかけは、たまたま自宅の前に咲いていた芍薬(シャクヤク)の花を撮ったことだった。そのときに何かをつかみ取ったというか、写真の原点に回帰することができたんだと思う。そして1981年に『写真時代』の創刊号から「光と影」という連載を始める。被写体には必ず光と影があって、それがカメラのレンズ通じてフィルムに写るという単純といえば単純なメカニズムなんだけど、その確認作業からリハビリをはじめていったんだね。写真集『光と影』(1982年)は、かつてのリアリティを取り戻す模索の時期の作品だよ。森山さんは『光と影』から写真の世界に復活して、その後はほぼ迷うことなく、自分の写真のスタイル固めて走り続けている。

森山さんは大阪出身なんだけど、戦前の大阪の写真家である安井仲治への思い入れが強くて、彼へのオマージュのシリーズが『写真時代』の連載、「仲治への旅」として展開していく。この連載をまとめた写真集が1987年に出版された『仲治への旅』。この写真集では、オブジェや抽象的な画面構成も実験している。僕は実は森山さんのオブジェ写真がものすごく好きなんだ。最近の森山さんの仕事にも時々は出てはくるんだけど、もう一度オブジェ中心の仕事をやってくれたらいいなぁと思っている。森山さんの眼はオブジェの存在に対して独特の角度で反応するところがある。完全にフェティッシュな人だと思うね。

『光と影』(1982年/冬樹社)

光と影 1981年

『仲治への旅』 (1987年/蒼穹舎)

『仲治への旅』より

300ページを超える大傑作 『ヒステリック三部作』

80年代以降に自分の写真スタイルを再生して、森山さんは90年代に「Daido Hysteric 三部作」という大傑作を発表する。3冊とも300ページを超える大型写真集なんだけど、これを初めて見たときは、ど肝を抜かれて、すごいショックを受けた。300ページを見続けてもまったく飽きさせないんだ。1冊目は東京を、モノを中心にクールに撮っている。森山さんはそういう冷静な距離感をあまり出さないけど、この写真集ではそれをドイツの写真家みたいに強く打ち出しているね。2冊目は東京の群衆を中心に撮っていて、群れになっている人間に対するある種の恐怖感を表現している。この2冊の写真集は20年後、30年後に見ると、90年代の東京の空気感を正確に捉えたすごくいい記録になると思うね。3冊目は大阪を撮っているんだけど、大阪に対する眼は故郷ということもあって、どこか優しい。この「三部作」を見ると、僕は森山さんが本当に楽しそうに撮っているように感じるんだ。もちろんちょっと無気味なものとか不健康なものも写っているわけだけど、それを撮っている森山さんの眼はあまりネガティブに歪んでいるようには見えない。

街を歩いて、そこで目にしたものを写真にしていくスタイルが完全にでき上がったのは、この「三部作」からだね。森山さんが思ってもいなかった被写体も飛び込んできて、面白いものがたくさん写っている。その飛び込み方が以前より凄味を増している。街自体が持っている可能性がカメラの中にどんどん飛び込んでくるというメカニズムだね。同じようなことは荒木経惟さんにも言えるんだけどね。

森山さんと荒木さんの写真の違いは、写真家の持っている体質のあらわれだと思う。距離感でいうと、森山さんの目は対象に近い。特に「三部作」になると被写体にぐっと寄って撮っていて、ディテールがぐーっと見えてくる恐さがある。目の前のものが見たこともないような異物に変わっていく凄みのある怖さ。これは『光と影』や『仲治への旅』で鍛えられたオブジェに対する感受性だね。逆に、荒木さんの写真にはそういうクローズアップは少ない。ちょっと引き気味に撮っている。だから荒木さんの街の写真には「事」が写っているのに対し、森山さんの写真には「物」が写っているんだ。

この頃から森山さんはリコーの「GR21」というコンパクトカメラを使い始めている。彼が前に話してくれたことなんだけど、コンパクトカメラには限界があって、だいたいフィルムを500本くらい撮り続けるとカメラ自体が壊れてしまうらしい。だからカメラが壊れるとそのシリーズは終わりになるんだ。この話を聞いたとき興味深かったのは、写真を撮るペースは自分が決めているんじゃなくってカメラが決めてくれるということ。そして500本を撮り続ける森山さんのとエネルギーの凄さだね。ひとつのシリーズでフィルム500本撮ることは尋常なエネルギーじゃないよ。

森山さんは、よく写真は「量が質を決めてしまうところがある」と言っている。量を撮るということについては確信を持っているね。たとえば50本撮って見えてくる世界と、500本撮って見えてくる世界を比べると、圧倒的に500本の世界のほうが凄いということ。僕も若い子の写真を見るときに、「まず写真をたくさん撮って、写真の分母を増やせ」と言っている。分母が大きければ大きいほどいい写真を撮れる確率が良くなるわけでしょう。森山さんは何十年という写真家としての経験からそれがよくわかっているんだ。だけどそれを実行し続けられるかどうかはまた別の問題で、やり続けるのは生半可なエネルギーじゃない。彼は長い間、若い人たちのカリスマ的な存在であり続けているけど、まず彼の写真に対する真摯な姿勢を見習うべきだと思うよ。

制作作業は、カメラが壊れるまで写真を撮り続けて、カメラが壊れたら現像とプリント作業に入る。集中して撮る時期と、プリント作業の時期を完全に分けているんだ。何百本も撮り続けて、最終的にときには300ページ分を選んでいくんだけど、その写真を選ぶ過程の中で、森山さんの美意識や世界観、時代に対する見方が必然的に現われてくるんだろうね。

『Daido Hysteric no.4』(1993年/ヒステリック・グラマー)

『Daido Hysteric no.6』(1994年/ヒステリック・グラマー)

『Daido Hysteric no.8』(1997年/ヒステリック・グラマー)

文庫版『大阪+』(2007年/月曜社)。1997年に刊行された『Daido Hysteric no.8』を再編集+増ページした復刻版

『大阪+』より

『大阪+』より

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)