人に振られて、一番傷つくことはなんだろう? 何より、「自分という人間を否定されること」じゃないだろうか。ワガママだったのかしら、あのとき怒ったからかしら、料理がへたくそだからかしら、ものを知らないからかしら……。何が悪かったんだろう、直したら戻ってきてくれるんだろうかなんて、あれこれ考えたりして。実際に「悪いところがあったら直すから!」と泣きついたという人の話を何度か聞いたことがある。
最近の脳医学の研究では、「人の恋愛期間は4年」というデータが出ているそうなので、愛が冷めるのは人間の本能だから安心してよい。完璧な聖人君子でも4年後には振られるんである。
では、失恋してもあまり傷つかないパターンは、なんだろう。自分のせいじゃない場合ではないか。例えば、親が反対している、遠距離、友達の彼だった、とか。そりゃ別れることになったら悲しいだろうけど、自分を否定して傷つくことはない。「前の彼が忘れられないの」とか「好きだけど、さようなら」とか言って、男を振る女というのは蠅蚊のようにわんさかいるけれど、こう言う女はまず間違いなく性悪なので、気をつけたほうがいい。なぜなら、「相手そのものを否定しなければ、自分が悪者にならずに、相手に未練を残させたままかっこうよく振れること」を知っているからだ。事実、そう言われた男は大抵、何年も未練がましくぐずぐず言っている。
『いつもポケットにショパン』は、きしんちゃんと麻子の恋物語だ。幼なじみだった2人は、一緒にピアノ教室に通い、一緒に学校へ行って、仲良く過ごす。そのうち、きしんちゃんはドイツに音楽留学へ行き、別れ別れになる。麻子は、きしんちゃんを忘れられずにいるのだが、日本へ戻ってきたきしんちゃんは、子どものころの麻子への愛情はどこへやら、冷たい態度なのだった。
もちろん作中で麻子はとても傷ついて、「ピアノをやめる」などと言い出す。冷たい母親に育てられ、大ピアニストの娘だと言われながら、決して上手くないピアノを続けなければならない。唯一の救いだったきしんちゃんとの愛情も、壊れてしまった。どん底だ。
しかし、救いがあるのだ。きしんちゃんは、麻子という人間そのものが嫌いなわけではないらしいことがわかってくるのである。きしんちゃんが麻子を目の敵にするのは、実はきしんちゃんの母親が原因だったのだ。なあんだ、よかった! これなら麻子は自分を否定することなく安心できる。読者も安堵、2人がうまくいくだろうと期待が持てる。だって、きしんちゃんは、麻子といるときにとっても楽しそうにしてるじゃないの、と。
失恋というテーマを少女漫画に取り入れるとき、どこかしらにエクスキューズがあるものだ。単純に自分という人間性を否定されたり、男に振られて、次のあてもないといった状況にはまずならない。そういう気遣いが、少女漫画が人気を誇る理由のひとつだが、現実はそう甘くないので要注意である。
この作品は、80年代初頭に描かれたものだが、当時の恋愛環境がよくわかる記述がある。きしんちゃんがマリアさんという女と一緒にいるところを麻子が見て、悶々と焼き餅を焼くのだが、マリアが1学年年上だということを聞いて安堵するのだ。昔、いかに「年上の女と年下の男のカップル」があり得なかったのかがよくわかる。今では、中学3年男子と高校1年女子がおつきあいする時代らしいので、昔の、人生がパターン化されていた時代というのは、余計な心配が少なくていいな。
ところで、くらもちふさこの代表作に『天然コケッコー』というのがあるのだが、このタイトルを見る度に『青春デンデケデケデケ』を思い出す。なぜかというと、どちらも「どこまで言うのが正解なのかな?」というところ。つい最近まで『天然コケコッコー』だと思っていたし、『青春デンデケデケデケデンデンデン』まで言っちゃったことがある。カタカナって読みにくいよな。
<『いつもポケットにショパン』編 FIN>