物書きという仕事をしていると、「才能」という言葉をよく耳にする。「才能があるからできるんだよね~」とか「君、才能ある?」とか。昔、詐欺師から電話をもらったことがあるが、そのときも「才能があるなら、僕と一緒に仕事をしましょう」と言われた。
才能なんてそんなもなあ、あるかどうかなんかわかるもんか。あるとしたって、それは他人が評価するもので、自分で決めることじゃないだろう。どうしてみんな、私に聞くんだ。みんな、よっぽど「才能」という言葉が好きならしい。
昔、「愛の才能」という歌があったが(バイトや一限サボっちゃうヤツだ)、ストーリー上、才能話がよく出てくるジャンルがある。スポ根(といってもスポーツに限らず、なんかに邁進してる人たちね)ものだ。才能につきものなのは、それを開花させてくれる人。大抵はそれは少女漫画の場合、恋愛対象となる。『ガラスの仮面』は月影先生と速水さん、『ライジング!』では高師先生、『のだめカンタービレ』では千秋先輩。
スポ根系の物語構成は、こうだ。平凡で取り柄のなさそうな主人公(これは大抵の読者に当てはまる)が、才能を発見されて、一躍大メジャーになるのだ。しかも発見してくれるのは自分ではなく他人で、つまり自分はブラブラ遊んでいるだけで(事実、『ガラスの仮面』のマヤは、公園で演技して遊んでるところを月影先生に発見される)、勝手にどこかから才能を開花させてくれる人がやってきて、大物になれるという夢が見られるのである。楽して鯛になる。うわあ、いいなあ。
というわけで、長く作家生活を続けている漫画家の作品は、どれを取り上げたらいいのか悩ましいが、くらもちふさこの場合、また年齢がばれるとか言われそうだが(読者の方からはよくよく『同年代っぽい』と言われますが)、『いつもポケットにショパン』から行きましょうか。
昔の漫画って本当にコンパクトにネタがギッシリ詰まっていて、いいね。久々に読み返してみてわかったけれど、ダメピアニストの娘が、男によって才能を開花させていく……というところは、『のだめカンタービレ』と同じ展開だ。音楽学校に通う麻子は、母親が名ピアニストなのにも関わらず、ぜんぜんフツーの弾き手である。それを、幼なじみのきしんちゃんが引き上げてくれるのだ。しかしその方法は、「がんばれ、麻子!」とか言って背中を叩いてくれるなどという安易なものではなく、大作家らしく非常に深くて良い。
きしんちゃんとのやりとりと平行して、麻子の成長が描かれる。冷徹で面倒見が悪くて、愛情の薄そうな麻子の母親だが、麻子が話中で成長していくに連れ、それが母親なりの愛情表現だったことがわかる。冷酷だと思っていた母親は、実はとんでもなく愛情豊かな人間なのだ。そう、得てして、見た目にいい人は実は大していい人ではなく、言葉は冷たくて乱暴な人ほど、実は行動はとても誠実で愛情深いものである。『きみはペット』でも、ユリちゃんがそうだと最終巻でわざわざ解説している。しかし、お子ちゃまにはそういう、人の真実がなかなか見えないものなのである。だから女はせっせと美白に励み、髪をストレートに伸ばしてピンクを身にまとっているのだよ。人を見る目は育てたいものである。
ところで、なにかの専門的なネタが出てくると気になるのが、「これはどれだけホントっぽい話なのかな?」ということだ。例えばテニスなんかだと『めぞん一刻』で三鷹さんが、『DEATH NOTE』では確かライトが、テニスで準優勝したり優勝したりしているが、いったいなんの大会なのか大変表記が曖昧だ。テニスは人口が多いので、「全国大会」といっても山ほどレベルがあるのだ。「その世界にいる人」からすると、"ぬるい"表現が非常に気になるもの。
この作品でも「トリルがきたない!」とかレッスン中に言われているけれど、どれだけリアリティがあるのでしょう。音大の人とかに聞いてみたいなあ。ひとつわかるのは、きしんちゃんが煩った腱鞘炎はとてもつらいということである(腱鞘炎は、テニスプレイヤーにもよく起こる疾病なのだ)。
<つづく>