男からもし、セックスのお誘いがあったら、女がまず考えるのはこれだろう。

「この人本気かしら、それともやりたいだけかしら……?」

このとき、「本気なのね」と思わせることができたら男の勝ち。その日は美味しくいただけることでしょう。「やりたいだけなのね」と思われたら、残念。その日の出費は無駄金となり、出直しである。いつだったか、食事帰りに女を誘ったら断られたので、懇願のつもりで「一回だけでいいから!」と言って、ぶっ飛ばされた男の話を聞いたことがある。一度だけでいいなら、風俗に行きたまえよ。

女性向け漫画を読んでいると、性に対する怒りが感じられることがある。自分という様々な構成要素をすべて無視して、女という入れ物だけを欲求の対象とされることへの激しい怒りだ。女同士で話をしていると、たまに痴漢撃退の話になることがある。歯を折ってやった、記憶が飛ぶほど殴り倒したなどという武勇伝は、女にとって胸をすく話だ。大抵の女には多かれ少なかれこの手の経験があり、それはとてつもなく不愉快な記憶なのである(ちなみにこういう話になったとき、男がうっかりえん罪の話なんかすると、逆鱗に触れてぶん殴られるので要注意)。

『BANANA FISH』も、そうした怒りが感じられる作品のひとつだ。もともと、この作者の作品には、男の持つ無神経な性の感覚に対する怒りを表す表現が多い。『ラバーズ・キス』や『吉祥天女』『桜の園』で描かれる男性嫌悪に近い台詞の数々には、深く共感する女性読者は多いはずだ。

主人公の超絶美少年のアッシュは、外見が美しいというだけで、めっちゃくちゃ男にレイプされまくる。近所の変態に、マフィアのおっさんたちに、刑務所の同僚に。アッシュは、そんな「道具」の様な扱いから、自分の才覚だけでのし上がっていく。こうして考えてみると、これはまさに女たちが辿った姿そのままじゃないか。

80年代までは、入れ物だけしか評価されなかった女たちが、能力を使う場所を与えられ、時には女であることを武器にしながら地位を獲得してきた。アッシュへの陵辱は、男というモデルを用いて、男たちに「ほらね? 入れ物だけしか評価されないことが、まず性の対象として見られることが、どれだけ屈辱的か、わかるでしょう?」と言っているのだ。

おもしろいのは、英二もまた女役であることだ。アッシュがあっさりやられちゃったようなシチュエーションで、英二はまんまと救われる。『僕は妹に恋をする』などでも見られた、少女漫画の「主人公の不可侵条約」である。アッシュに守られている英二は、女にとって自分の身代わりなのだから、彼が男に襲われるということは、自分が男に襲われるということなのだ。それでは繊細な少女たちの心がもたない。恋の対象として設定されたアッシュが襲われる分には、「自分の痛みを理解してくれている希有な男性」となるわけである。

それにしても、アッシュの人気というのは莫大だったようである。5巻くらいまではサックサク話が進んでいたものが、アッシュがイケメンに変化するに連れて進行が遅くなる。最初は「ちょっと頭のいい悪ガキ」だったのが、そのうちに化け物のように超人化していく。一度図面を見ただけのビルで「ここにダクトがあるはず」とか言って通風口(?)をウロウロするし、どんなにすさんだ生活をしても、一度覚えたロマネ・コンティの味は忘れないらしい。

少女たちは、「かっこいいアッシュ」「アンニュイなアッシュ」「英二と一緒に楽しそうにしているアッシュ」を熱望したようで、後半はまさにそんなアッシュのオンパレードである。しかしアクションや知恵比べの要素は健在なので、男性たちにも存分に楽しめるのではないだろうか。ちなみに、女子と一緒に読んだ場合、彼女たちは「英二と一緒に楽しそうにしているアッシュ」を、極上の楽しみにして読んでいるはずなので、「おもしろかったシーン」の話では、そんなところを意識して取り上げてあげると良いでしょう。
<つづく>